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花に風
その日からゆっくりと時は過ぎた。
私は心の中で先生のことを、【名高さん】と呼んでいた。
名高さんとの会話は楽しかった。
ふるさとの宮古島の話、関東での大学生時代の話、好きな動物の話。
私と趣味も年齢も違うのに、何かしら感覚のようなものが合う。
患者の私に気を使って、合わせてくれてるのかな。
なぜ意味もなく、彼に懐かしさを感じていたのかも、今ならわかる。
宮古島での体験もだが、他にも共通点がある。
目だ。
目の形と目線の使い方が私と、驚くほど似ている。
そのことに気づいたのは、洗面台の鏡の前だった。
刃物の刃先を当てたような切れ長の瞳。人によってはきついとさえ感じる私の目と名高さんの目は、そっくりだった。
「目元がたるんできたな」
他人の空似を喜んでばかりもいられない。尋ねてみたら、名高さんは31歳。私は55歳。やはり親子ほども離れている。
私は丸顔だからいくぶん若く見えるが、年齢は残酷な事実だ。
「白髪も目立つ」
介護と家事に忙殺され、何年もお洒落に無関心だった。
結婚もしてない。
兄弟もいない。
今さらながら、我が身の老いが怖い。
私は鏡から離れて病室に戻った。
すると部屋には新しく入院患者が入っていた。
「芹沢です。よろしく」
「私、小林です」
恰幅の好い女性と軽く挨拶していると、仲代さんが来た。
「早速、お話中ですね」
彼は私たちに、にこやかに話しかけると小林さんに向き直った。
「今後の治療の方針ですが」
私は自分のベッドに戻ると、マナーとしてカーテンを引く。小林さんも私と同じく血液癌なのだろう。
一通りの説明が済み、仲代さんは何か聞きたいことはないかと尋ねた。
「先生、独身?」
私は一瞬、息を止めた。まさかいきなり小林さんが、そんな質問をするとは思わなかったからだ。
「結婚してますよ。まだ半月くらいかな」
え……?
そんな話、知らない。
今まで仲代さんから聞いたことはない。
私は入院してひと月にもなるのに。
「美人?」
「美人じゃないっていうと失礼だけど、自然な形で家族になりましたね」
この人に出会わなければよかった!!
2人の笑い声を聞きながら、私はベッドの上で両手で顔を覆った。
その夜、私は眠れなかった。出会わなければよかったのか。けれど出会わなかったら、私は今よりもっと不幸だっただろう。
恋の感激も苦さも、とうの昔に忘れていたのだから。
「私にまだ、人を愛する感情が残っていたなんて」
それもまた、私にとって残酷な事実だった。
翌日から、小林さんはせっせと友達を作った。
72歳とは思えぬほどパワフルで陽気。気が若くて物怖じしない性格から、看護師や別の病室の患者にも人気がある。
彼らは私には話さなかったたくさんの情報を、小林さんには惜しみなく与えた。
そして、仲代さんもその1人だった。
「奥さんの家は、資産家なんですよ。彼女も医師で神経質で気が強いし、私は頭が上がりません」
「子供が生まれたら、夫婦の情が湧いてくるよ」
「そうかな」
「そうよ」
私には一言もしなかった夫婦の悩みや相談。自分の両親や兄弟の仕事の話。
私は仲代さんに兄弟がいるなんて、知らなかった。
彼が私に話したことは、当たり障りのない趣味の話だけ。
自分の心の中には、私を決して入れなかったのだ。
「芹沢さん、どうですか」
小林さんとの談笑が終わってからお義理のように私に声をかける。
仲代さんは小林さんが来てから、あまり私と話さない。
以前は時間があれば二人でこの部屋の中で、よく笑った。
今は型通りの話が済むと、そそくさと去る。
そして最近は威圧感を感じる白衣姿。
私にはそれだけで、彼が遠い存在になった気がした。
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