揺れる花房

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揺れる花房

今日しかない。 入院してひと月以上経った。 検査結果は思わしくないがそろそろ退院して自宅療養に切り替わる時期だ。 このまま退院して、仲代さんとお別れするのは嫌だ。 せめて友人として、長く付き合ってゆきたい。 そう思い詰めたがなかなか機会がなかった。 病室にはいつも小林さんがいる。彼女は自分の時間を邪魔されることを嫌った。 どうしても仲代さんと話したくて、小林さんと談笑する彼に話しかけたことがある。 すると彼女は、「先生の仕事の邪魔をしない!」と、ぴしゃりと言い放ってゲラゲラ大笑いした。 仲代さんも一緒に苦笑していた。 私もつられて笑ったが、その時確かに小林さんの私への嫉妬を感じた。 今、その彼女は看護師とともに検査室へ向かった。 「九州沖にサメが現れたらしいですね。さっきニュースで見たって、小林さんが言ってました」 仲代さんが微笑んだ。 この柔らかな笑顔だけは、今までと何も変わらない。 「今年も宮古島の寒緋桜を見られなかった。忙しくて、なかなかふるさとに帰れません」 「私もまた、寒緋桜が見たいです」 私は何とか、彼のペースに合わせたかった。 なのに……。 「でも、沖縄にもサメが現れてるから帰っても泳げないな」 また、ここにはいない小林さんが余計な邪魔をする! 私は仲代さんの気持ちを強引に、私の側に引き寄せる。 「行きましょう、一緒に!寒緋桜を見に宮古島に……!!」 私は何日も前から用意した、スマホの連絡先のメモを、仲代さんの手に握らせた。 彼は驚きに、大きく目を見開く。 マスクの下の表情はわからない。 けれど、彼にこんな痛ましい顔をさせるなんて。 私はひりひりと胸が痛んだ。 そしてメモが突き返されるか、目の前でビリビリに破られる瞬間をひたすら待った。 だが彼は手にしたメモを一瞥すると何も言わず、白衣の胸ポケットにねじ込んだ。 そしてそのまま無言で病室を出て行った。 「受け取ってくれたんだ」 私はその夜、嬉しくてたまらなかった! もちろん、誰にも言わない。絶対に秘密だ。話したら、きっと仲代さんに迷惑がかかる。 消灯時間が過ぎても、私は興奮して眠れない。今夜は小林さんの大きないびきもちっとも気にならない。 仲代さんは私と友達になってくれるのだ。 目をつぶった瞼の裏に、木漏れ日に揺れる緋寒桜の大木が見える。 私と仲代さんは黄金の光と紅の花びらを声もなく、いつまでも見上げていた。 私が夢見心地でやっと眠りに就いたのは、夜が白み始めた頃だった。 「あなたさぁ、仲代先生が好きよね?」 翌朝、ぼんやりした頭で朝食を摂っていると、唐突に小林さんが尋ねてきた。 「何のこと?」 私は一瞬、仲代さんがメモの話を小林さんにしたのかと青ざめた。 「あなたの態度見てたらわかるわよ。でもさぁ、先生には若くて可愛い金持ちの嫁がいるし、迷惑なだけじゃない?」 「小林さんこそ、先生のプライベートまで踏み込んでるじゃない!?」 私は彼女の無神経な物言いに語気を強めた。 「ああ、あたしはいいの。あのくらいの年の男が好きなだけ。『可愛い可愛い』って、入院してる間だけ、暇つぶしに愛でてるだけ」 「先生に失礼よ!」 「マジな女よか、先生も喜ぶよ。あたしと話せてストレス解消してんじゃん?」 小林さんはそういうと、自信たっぷりに胸を張る。 そうかもしれない。 仲代さんは私に、本心を打ち明けてはくれない。 それは内気な私と話しても面白くないからなのか、それとも私が真剣に恋していることに気づいたからなのか。 どちらにせよ私は、彼女ほど仲代さんに必要とされてはいないのだ。 そして私と小林さんが話すことはこの後、ほとんどなくなった。
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