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花おちる
「かなり歩きもしっかりしてきましたね」
私が4階から1階の売店に行くためにエレベーターに乗ると、後から乗り込だ仲代さんが微笑んだ。
まだメモの件から1日しか経っていない。
「少し話せませんか?」
仲代さんはエレベーターを降りると外の噴水が見える談話スペースを指さした。
ソファに座ると仲代さんも私の右隣に腰掛ける。
何を言われるのかと、ドキドキする。
「二人では行けません」
ああ、やはりその話か。やっぱりダメよね。
目の前でメモを破り捨てられなかっただけでも、幸せと思わないと。
けれども私が頭を垂れてしょげていると、仲代さんは思いもよらない提案をした。
「芹沢さんが退院して体調が万全になったら、私の家族と一緒に行きましょう」
え……?家族?
ああ、なるほど。
やはり仲代さんは頭がいい。私と二人だけで行くのはまずいから家族を入れたのね。
いい考えだな。
私は仲代さんの賢明さが不快ではなかった。
「いいですね!いつか行きましょう、みんなで宮古島に!!」
私が力強い返事をすると、仲代さんはほっとした顔をした。
「うん、いつかね」
「はい、いつか」
私たちは満足して久しぶりに笑い合い、時間も気にせず語り合った。
本当に楽しい。
二人とも心のどこかで、その【いつか】が、永遠に来ないことを知りながらも――――。
◆
実耶の容態が急変したのは、その3日後の深夜だった。
自宅で就寝中だった隼斗のスマホに、夜勤の看護師と当直医から次々とメッセージが入る。
「何よ、うるさいわね。スマホ切っときなさいよ!」
小児科医の妻は、にこやかな勤務中とは打って変わって得にならない相手には厳しい。
隼斗はベッドから素早く抜け出すと、立ったままメッセージを開く。
【芹沢実耶】と患者名が表示されるが、内容がまったく頭に入って来ない。
着信順にメッセージを読むのももどかしく、最新のメッセージに目を走らせる。
「蘇生措置のかいなく、芹沢実耶さんは心不全のため4時21分に永眠されました。つきましては主治医の先生は明朝出勤後に」
無味乾燥な事務連絡も隼斗には、まったく理解できない。
「実耶さんが、死んだ……?」
隼斗は両脚から力が抜け、寝室の床にへたり込む。
右手にスマホを握り締めたまま、呆然と液晶画面の光を見つめる。
「俺が突き放したせいなのか」
自分と感覚の似た人だと思った。
はにかんで、うつむき加減に話す控えめな姿に好感を持った。
そうかと思えば、好奇心に瞳を輝かせ、子供のように無邪気に笑い転げる。
まるで重い花弁を下に向け、あでやかに咲く緋寒桜のようだ。
計算ずくめの妻とは、何もかも正反対の人。
母親よりも年上の女性を愛し始めた自分に、正直、戸惑った。
既婚者であり、医師という立場もある。
だから壁を作り、ひたすら拒んだ。
それでも、心の底であなたを傷つけたくはない、こうすることが、患者のあなたを守ることだと信じていたのに。
「その報いが、これか」
隼斗はただただ、傍らで眠る妻の寝息が煩わしかった。
知っていますか、実耶さん。
緋寒桜は散らない。
萼から落ちて、地面を覆うんです。それは美しく、花の絨毯を敷き詰めたように。
あの風景をあなたと見たかった。
泡盛を持って、二人で酔って、ごちそうの弁当を広げて笑いながら。
「そう言えば、あなたは飲酒習慣がなかった」
入院時の、実耶の問診票の記載を思い出した隼斗は、自分はどこまで行っても医師の枠からはみ出せないのだと痛感する。
そしてそのまま、夜が明けるまで声を殺して泣き続けた。
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