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約束の空
「母がくるまで愛里沙を見てて。この子、あんたの言うことなら聞くから」
季節は移ろい、また桜の季節が巡って来た。芹沢実耶が亡くなってから4年が経つ。
隼斗夫妻には娘が生まれたが、新婚当初から隼斗が危惧した通り、妻との間に夫婦の情など湧かなかった。
「服を汚さない!お祖母ちゃんがくる前に着替えなさい!」
妻は家の中から、庭で土遊びをしている幼い娘にヒステリックに怒鳴る。
「もっと優しく言えないのか」
春物のコートにイライラと袖を通す妻を、隼斗はたしなめた。
「朝の忙しい時に、何であたしが自分の子にサービスしなきゃいけないのよ!?一文の得にもならないわ!まったく、顔も性格もあんたそっくりで可愛げのない!おまけに、自分にあだ名をつけておかしなひとり遊びを始めたり。あたしに似ればもっと積極的で明るいのに」
妻の際限のない罵倒を、隼斗はソファで身を硬くして耐える。
「朝のカンファレンスがあるから、もう行くわ。あんたはいいわよね、今日は休みで。母のご機嫌取りはよろしくね!あたしの財産目当ての結婚なんだから、そのくらい文句言わずにやる!」
妻は断定調で命令を叩きつけ、自家用車で出勤した。
その間も、愛里沙は母に背を向け黙って庭にしゃがんでいた。
娘の小さな背中を見つめながら、隼斗はこの子と二人だけで生きていく決意をしていた。
遅すぎたかもしれない。
あの人を失った今頃になって、離婚の決断をしても……。
隼斗はソファから立ち上がるとサンダルを履き、娘の前にしゃがんだ。
「愛里沙、パパと遊ぼうか」
隼斗は頼りなく儚げに見える娘に、優しく声をかけた。
その時、愛里沙は顔を上げずにこう答えた。
「あたし、みやちゃんよ」
隼斗は幼い我が子の言葉にハッと息を呑む。
まるで胸に傷を負ったような、鋭い痛みと愛おしさが抗い難く湧き上がってくる。
「愛里沙は、その名前が好きかい……?」
「うん」
愛里沙はうつむいたまま、赤いスコップで黙々と地面を掘り返している。
「パパも好きだよ。大好きだった……」
名字しか呼べなかった。下の名を呼ぶことをできなかった人。
あの人に、伝えたかった。
せめて、ひと言だけでも……。
許されない感情と知りながらも……。
「あの人、イヤ」
「え……?」
隼斗は愛里沙の呟きが、妻のことだと気づくまでしばらくかかった。
「すぐ怒る。いじわる」
愛里沙はそういうと、小さな盛り土をスコップの背でぺちぺち叩いた。
勝ち気で意志が強いところに惹かれて結婚した。
だがそれも、ただの買い被りだったとわかる。
自らしか愛していない妻は、他者を自分の利益のためだけに、思い通りに動かしたいだけだ。
仕事仲間はむろん、夫や我が子でさえも……。
「桜が咲いているかな。お祖母ちゃんがくる前に、ちょっと公園に行こうか」
隼斗はうつむく娘の顔を覗き込んだ。
「公園のお花、色が薄いもん」
【濃く、鮮やかな桜が見たいんです。命が燃え上がるような】
あの人は、確かにそう言って笑った。
隼斗は涙声になるのを何とかこらえながら、我が子に話しかける。
「いつか一緒にパパのふるさとに行こう。涙に滲んだ花色じゃない、紅く燃える緋寒桜を二人で見よう」
「ほんとう?」
愛里沙は初めて顔を上げた。
「いつかって、いつ?」
磨かれた黒曜石の瞳が、隼斗を一心に見上げてくる。
「今すぐだ」
「うん!」
いつか、なんて言わない。いつかなんてごまかさない。
今度こそ、行こう。二人だけで――――。
隼斗は両手で娘を抱き上げた。
愛里沙は隼斗の首に嬉しそうにしがみつく。
父の肩越しに、春に煙る空が見える。
その空で、紅く濃く、燃える花びらを、隼斗と知らない女の人が笑って見上げていた。
愛里沙は懐かしそうに花曇りの空に視線をさまよわせながら、隼斗に揺られて家に入って行った。
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