緋の花びら

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緋の花びら

病室の窓から柔らかな午後の光が差し込む。 私はベッドに腰掛けて、花曇りの空を見上げた。 今回の入院は運がよかった。 半年前は4人部屋の入り口側のベッド。廊下からの視線を遮るために一日中カーテンを引かなければならなかったからだ。 「なんて明るくて、気持ちがいいんだろう」 私はベッドの上で伸びをしながら、3月の冷たい空に見とれた。 今回は2人部屋で今は私1人。すぐに埋まるだろうが、入院当日の今夜くらいは静かに休めそうだ。 「芹沢実耶(セリザワミヤ)さんですね。主治医の仲代です」 慌ただしく荷物を解いて一息ついていると、若い男性の声がした。 遠慮がちに掛けられた言葉に振り向くと、黒のVネックウェアで白いマスクをした医師が笑顔で立っていた。 「お世話になります。木村先生は退職されたんですよね」 胸の名札に、『血液内科 仲代隼斗(ナカダイハヤト)』と書かれた医師に私は尋ねた。 「はい、木村先生は他の病院に移られました。主治医が代わって不安でしょうが引き継ぎは万全です。何か治療について、聞いておきたいことはありますか」 30代に見える黒い瞳の医師は、優しく尋ねた。 どこか懐かしさを感じる人だ、と不思議に思いながらも私は「いいえ、よろしくお願いします」とだけ答えた。 「では、明日から悪性リンパ腫の治療を始めます。よろしくお願いします」 仲代先生は軽く頭を下げると、来た時と同じ笑顔で去って行った。 30代なら私より20歳ほど、年下か。 私はぼんやりと考えながら、彼の背中を見送った。 翌朝早く、私は目覚めた。 会社を辞め母の介護のため早起きする習慣が、入院しても抜けないらしい。 抗がん剤の点滴は、朝食後に行われた。異常があればナースコールを押すように言って、看護師は病室を出た。 「これ、効くのかな」 1人になって、私は呟く。 やっと治ったと思ったのに、わずか半年で再発した。今度こそ、寛解してくれればいいのだが。 ベッドに仰向けになり、点滴の透明な管を眺めていると不意に寒気がしてきた。 抗がん剤の副作用だ。 私は激しい悪寒にガチガチと歯を鳴らしながら、懸命にナースコールのボタンを押した。 「中和剤が効いていますよ。落ち着きましたか?」 ああ、この声は……。 懐かしさを覚えて、私はゆっくりと目を開けた。 「頑張りましたね、芹沢さん。ボタンを押してくれて早く処置できました。ありがとうございます」 仲代先生は切れ長の瞳を細めて、ベッドの横で穏やかに微笑んでいる。 何でもないことでも、褒められると嬉しい。 私を励ましてくれているのだと、わかる。 「外はどんな天気ですか」 窓際のカーテンは閉められている。点滴の針が刺さった左手を気にしながら、私は左側に頭を向けた。 「ううん?どうかな?ああ、やっぱり曇りですね。黄砂かな」 仲代先生は素早く動くとカーテンを開けて、空を見上げた。 「芹沢さん、笑ってる?」 なぜか先生は嬉しそうな声で尋ねてきた。 「すみません、だって何だか、『やっぱり曇り』って言い方が可笑しくて」 「未だに慣れないんですよ。関東の天候に。私は九州出身なので」 「え?私もです!九州のどちらですか!?」 私は何だか嬉しくなって弾んだ気分で尋ねてみた。 「宮古島です」 「私は福岡ですが、宮古島なら大学の卒業旅行で行きましたよ!緋寒桜(ヒカンザクラ)がとってもきれいで!!」 私は重たい頭を枕から何とか持ち上げて、彼の返事を待つ。 「本土の桜とは全然違うんですよ。あんな水に薄めたような赤じゃなくて、濃い紅色(くれないいろ)で!」 名高さんは私にふり向くと、身を乗り出して話す。 「私、ソメイヨシノより緋寒桜が好きなんです。涙に滲んだような花色じゃなく。うすぼんやりした桜よりも濃く、鮮やかな桜が見たいんです。命が燃え上がるような気がして」 「私も!」 興奮した仲代先生は寝ている私の顔に、グッと顔を近づけた。 少年のように素直な人だな。 私は少しだけどぎまぎしながらも、何だか温かな気分になる。 この人と話しているだけで気分が華やぐ。 こんな気持ちになるのは、何年ぶりだろう。 気がつけば、私たち二人は声を揃えて笑っていた。
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