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山岡ケンジ -1
四月の休日、山岡ケンジは喧噪の中にいた。
天気の良い昼下がり、市内の桜スポットとして有名な公園は花見客でごった返している。
桜は見頃を迎えており、遊歩道にまでせり出した枝の数々はピンクのトンネルを形成していた。
トンネルをくぐる花見客たちは一様に上を見上げ、今年もやってきたこの春の風物詩を時間をかけて噛みしめている。
一方、ケンジの歩みは彼らの緩慢な動きとは対照的だった。
ヒラヒラと舞う桜の花びらよろしく軽やかに人混みを避け、両の目は常に忙しなく周囲に気を配っている。
周りとの温度差、この場に似つかわしくない異物感。
そのテンションのコントラストは、ひとえに目的の違いからきている。
ケンジは狩りに来ていた。
花見客に素知らぬ顔で近づいては、財布やら貴重品を拝借するのだ。
彼らは桜の木を見上げ、飲んで騒いで、警戒心を麻痺させていく。
若い連中などは、取ってくださいと言わんばかりに尻ポケットから財布やスマホを飛び出させている。
酒で膀胱をパンパンにさせてトイレに向かう輩などは、意識が尿意に向いているので、すれ違いざまに容易くスれる。
お祭り気分で浮かれる花見会場は、スリにとって絶好の狩場なのだ。
彼らは、自分たちが獲物になっているという自覚がないまま愉悦に浸るが、ある時点で、あるべき場所に、あるべき物が無い事に気が付き、青ざめる。
しかし、そんな被害者たちの心の乱高下は、ケンジの与り知るところではない。
原因を作ったのはケンジだが、仕事を終えれば、とっとと現場をあとにして、スッた物が財布なら、現金だけ抜き取り、財布本体やカード類と一緒に、自らの行為の記憶を捨て去る。
そうして、まるで知らない間にポッケにお金が入っていた! というような、お伽噺のような現状を受け入れる。
そんな風にして、罪悪感や捕まる恐怖から逃れるのだ。
今日もそのハズだった――
ついさっき、いかにも休日のサラリーマン、といった風体の中年男とすれ違い、ジャケットの懐から財布を失敬した。
呆けた花見客の中でも、ひときわボーッとしており、思わず手が出てしまったのだ。
キャッシュレスのこの時代、財布をスッても現金がほとんど入っていなかった、という事がままあるが、ケンジの手に握られた黒革の財布の厚みからは、期待感がしっかりと伝わってきた。
今日はもう終わりにするか――
そんな事を考えていると、急に後ろ髪を引かれるような思いがした。
スリは、一瞬の出来事だ。
ケンジは神経を研ぎ澄まし、獲物と目と鼻の先の所まで接近する。
極度の緊張状態ゆえ、感覚や、音や風景が、少し置き去りにされる。
目当ての物を手にして獲物から離れている頃になって、あとからそれらの情報がケンジを追いかけてくるのだ。
そして今、ケンジはその情報の中のひとつに首根っこを掴まれている。
聞こえていた気がするのだ、こんなセリフが。
「撮るよ~、チーズッ!」
スリを行ったあとは可及的速やかにその場を去るので確認はしなかったが、おおよそ学生のグループだろう。
スマホを構える男のアホ面が、チラッと視界の端にあった気がする。
ある花見の記念撮影。
しかしそこには、見ず知らずの全く関係ない男が写り込んでいる。
その男は、中年男性から財布をスッている。
――犯行の瞬間を撮られたかもしれない。
――顔が写ったかもしれない。
冷や汗が背中を伝った。
宴に興じる彼らは、まだ気付いていないだろう。
しかし、冷静になって写真を見返した時、誰かが気付くかもしれない。
もし、犯行の瞬間が収められていたら、顔が写っていたら。
ケンジは踵を返した。
気のせいだ、仮に写っていたとしても、顔までは――
やべぇ! のひと言で笑い話として処理される可能性もある――
だから放っておけ――
そう、都合良く思い込む事もできる。
しかし、足は来た道を戻っている。
ケンジには自信があった。
――あのスマホをスる自信が。
気付かれる前にスマホごと持ち去る。
なんなら、写真のデータだけ消して元の場所に返してやってもいい。
花見に夢中な男からスマホをスるくらい造作もないと、ケンジは高をくくっていた。
しかし戻ってみると、彼らの宴の様相は一変していた。
シートに座る五、六人のメンバーが、異様と言えるほどに、みな揃って押し黙り、俯いている。
やかましいと、周りから叱責を受けたのだろうか。
それにしては、周りも十分やかましいから、そういう理由ではなさそうだが、とにもかくにも、まったくもって隙が無くなってしまった。
これでは迂闊に近づく事ができない。
立ち尽くすケンジの足元に、風で飛んできたチラシがまとわり付いた。
一瞥すると、何か行方不明者の情報を求めるチラシのようだった。
ケンジは舌打ちをすると、足を振り払い、ベンチに腰を下ろした。
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