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焙煎珈琲
時計の秒針に追われて朝が始まる。
「あぁ、もうこんな時間だ!」
洗濯機のスタートボタンを押してトースターにチーズを乗せた厚切り食パンを二枚放り込む。オリーブオイルが勢いよく弾くフライパンに卵を割り入れると可愛らしく微笑む目玉焼き。
「日向、ごはんだよ!」
「はーーーーい!」
僕は日向の指に絡まるチーズを眺めながら洗濯物を干した。
「ごちそうさま!」
「はい!行ってらっしゃい!」
「行ってくるね!」
お互い背中に腕を回し、抱きしめて口付ける。
「クンクンくん」「クンクンくん」
互いの首筋の匂いを嗅いで送り出し「さて」と振り向くとキッチンのシンクの中には身玉焼きの黄身がこびりついた白い皿が積み重なっていた。
「あぁ、皿洗いは、保育園から帰って来てからで良いか!」
手際よく髪の毛をヘアワックスで整え、クラッカーを頬張りながら保育園用のエプロンとオレンジの封筒をリュックサックに押し込んだ。
「さて、出発!」
僕は頑張りすぎないを呪文のように繰り返し、午前中は自転車に跨り日向の白い車を尾行した。
月曜日 金沢ホテル日航金沢
火曜日 金沢駅まいどさん待合室
水曜日
木曜日 北國新聞カルチャースクール
金曜日 田辺歯科医院
土曜日 金沢ANAクラウンプラザホテル 和菓子森八
当初は焙煎珈琲の香りがする不倫相手探しに躍起になっていたが、次第に日向が活ける花に興味を持つようになった。
(今日は水色とグリーン、リボン、結婚式の装飾花かな)
ホテルのスタッフと打ち合わせをする日向の笑顔は向日葵のように明るかった。けれど支柱となる長い枝を運ぶ姿は真剣で力強く、全体の色味やバランスを整える視線は厳しく日向が職業人である事を再確認した。
(当たり前だけれど、日向ってプロだったんだ)
尾行に慣れてきた僕は余裕綽々でホテルのレストランでモーニングビュッフェを食べながら日向の作業を見守る事もあった。
(あ、これ美味しい。今度のお休みに日向と食べに来よう)
更に滑稽な事に、僕は北國新聞カルチャースクールのヨガストレッチ体験入学で汗を掻き、歯科医院で何年間も放置していた歯石を綺麗に取り除いて貰った。
(ーーーーあれ、僕はなにをしているんだ)
オレンジの封筒が届いてからの僕は僕じゃない、主治医に相談してみたが酷い躁状態ではなさそうだ。
(ーーー良かった)
日向は僕の変化に気付いているだろうか、それとも不倫相手に心を奪われて僕の事など眼中にないかもしれない。そう考えると少し気分が落ち込んだ。
「はぁーーー疲れた」
そして僕は水曜日と木曜日、日曜日以外は保育園で保育士として勤務した。三年振りの保育現場は緊張の連続だった。突然死や無呼吸症候群を防ぐ為に0歳児から2歳児までの乳幼児クラスでは五分置きに<呼吸の有無>を確認しチェック表に記入しなければならない。たった三時間、それでも命の重さを預かる事に変わりはなかった。
「んーーーー!明日も頑張ろう!」
給料が支給され、疲労感もやり甲斐へと変化した。
そんなある日、日向が黄色と白の菊の花束を手に帰ってきた。
「どうしたの、それ」
「仏さまのお花、お盆のお墓参りに行けなかったでしょう」
「あーーーーー!本当だ!」
一呼吸、間があった。
「理玖も行く?」
「おばあちゃんのお墓だもの、行くよ!今から?」
「うん、親戚のお兄さんが迎えに来てくれるって」
「珍しいね」
「私の車、荷物がいっぱいなの」
ガラガラガラガラ
玄関の扉が開いた。
「おおーーい、日向、お待たせ!」
「あ、健ちゃん、従兄弟なの」
「従兄弟、はじめまして、かな」
「そうだと思う!」
日向は仕事着から黒いワンピースに着替えた。
「あ、君が日向の旦那?」
「はい」
「えーーーーと」
「理玖です」
「あぁ、理玖くんね、よろしく」
差し出された手のひらは大きくて分厚かった。
「 小笠原 健太、日向の従兄弟」
「はい、よろしくお願いします」
その時、彼の着ているダンガリーのシャツから香ばしい珈琲の香りがした。
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