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第一話 はじまりは夢の中
誰かに追われる夢を見た。
そこはかつて僕が通っていた高校、誰もいない廊下を走って逃げている。
何から逃げているのかは分からない。ただ無性に高鳴る鼓動にあわせて湧き出てくる恐怖に突き動かされている。とにかく逃げなければならない、という声で頭が満たされている。
昼日中、ひんやりとした陽光が窓から射し込み、床のリノリウムの艶感を高めている。上履きのゴム底で甲高い音を立てながら走り続ける。
追手が誰で、どれだけ迫っているのか、気になって振り返る。でも、なぜかうまく首が回らない。それでも視界の端に何やらぼんやりとした人の影。そう、それは影と言い表すのが最適な質感だった。廊下の上の空間に立っている。それでも影にしか見えない実体のなさ、希薄さ。そんな黒くぼんやりとした人の姿がこちらに向かって迫っている。そんなに速くない。走ればすぐに逃げられそうなゆっくりとした動き。しかし、気づけば自分もそんなに速く走れていない。バタバタと走っているつもりなのだが、水中でおぼれてその場でもがいているように遅々として進めていない。募る焦りに頭が混乱していく。とにかく走り続ける。最大限に急いで、ごく必死に。
背中に視線を感じる。しっかりと捕捉されていることを感じる。その視線から逃れたくて、教室の並びの間にある階段を駆け下りる。二段飛ばしでお互いの距離を引き離せるように。
一つ下の階で再び廊下に出る。もし追っ手を振り切れていたら廊下の先にある校舎の壁面に設けられた、非常時の脱出路としても使用される外階段から校庭に逃げよう、そう思って少し振り返る。誰もいない。しかしすぐに先ほど降りた階段から追っ手が現れそうな気配がする。だから更に慌てて廊下の端にいたり、鉄製のドアノブに手を掛けた。
鍵は掛かっていなかった。重い鉄製のドアが軋みながら外側に開かれた。
そこには校舎の壁面に、最上階から地上までつづら折りに伸びている外階段があるはずだった。重い扉を体重を掛けて押し開いた勢いそのままに僕は足を踏み出した。
そこには何もなかった。眼下、遥か下に校庭の土。
一瞬にして落ちていく感覚、全身総毛立つ。
そこで目が覚めた。
翌晩、また追いかけられる夢を見た。
自宅のある住宅街、なだらかな傾斜に貼りついた家々の並びの間を駆けている。昨晩と同様、焦燥感と恐怖心に苛まれながら。
また何に追いかけられているのか確認するために振り返る。また影。陽光に照らされたアスファルトの上に立っている。何とも異様な威圧感。近づきたくないし、近づかれたくない。更に逃げ続ける。
走っても、走っても、道は遥か先まで続いている。背後から迫る気配はいっこうに遠のいてくれない。思わず振り返る。先ほどと同じような距離に影がある。ただ、少し周囲が暗くなった気がする。少しして再度振り返るとまた少し暗くなっている。気づけば黄昏時のような薄闇が辺りを包んでいた。昨晩から感じていたことだが、周囲の風景はどことなくぼんやりしている。自分の生活に深く関わっている場所なので、昨日も今日も違和感はないが、どことなく色がかすれいているような気がする。はっきりとした色を見出せない。そんなぼんやりとした不明瞭な感覚も手伝って更なる不安が募っていく。もっと速く、もっと遠くへ逃げないと、そう思った瞬間、前に出した右足の底が宙を踏んだ。足元のアスファルトが大きく陥没していた。僕はもうそのまま落ちていくしかなかった。
そこで目が覚めた。
更に翌晩、再び追いかけられる夢を見た。
眼前に広がる草原、遮るものさえ見出せず、頭上に広がる曇りがちな空の下、また僕は走っている。
さすがに三日連続だとまたか?という気になる。ただそうは思っても焦りや恐れがなぜか払拭できないので、そのまま走り続けているが、どうせ今日も追いつかれる前にどこかに落ちてしまうのだろう、と頭の隅で思っていた。やがて走り続けるうちに波音が聞こえてきて、草原の端、海に落ちる断崖絶壁に辿り着いた所で足を止めた。そしてもう、すぐ後ろまで迫っているのだろう影の姿をよく見てやろうと、何だったら、なんで追ってくるのか理由を問いただしてみよう、という気で後ろを振り向く、その刹那、
「止まらないで。走って、速く」と左手首をガシリと掴まれる感覚とともに声が聞こえた。とっさに声のした方に顔を向ける。そこにいたのは、同い年くらいの女の子。
そのコはしっかりと僕に視線を向けていた。そして見る間に表情が緩んできて、やがてにっこりとした笑顔になった。
ああ、かわいい。僕は瞬間、そう思った。背は高くもなく低くもない。愛嬌を感じさせる目鼻立ち、くりっとした大きな目に、心根の純粋さが映っているような透き通った深遠さが見て取れる瞳。茶色がかった髪は、ちょうど肩に掛かる程度の長さで、くせ毛なのか方々で波打ち、全体が豊かに膨らんでいる。僕は一瞬、見惚れた。目を見開いて、我を忘れて。ただ、すぐに腕を引っ張られた。
「こっちに道があるわ」
そのまま引かれるままに、先ほどまで気がつかなかった崖伝いに下りていく坂道をいく。
断崖絶壁の岩肌に貼りつくように伸びている坂道。それほど狭い訳ではないが、ゆったりと二人並んで走るほどに幅はなく、僕たちは前後になって下っていく。手すりや落下防止の柵はない。迷いなく手を引きながら彼女が駆けていかなければ僕は躊躇して進めなかっただろう。
「すぐそこに洞窟がある」
彼女のその声通りに彼女の肩越しに洞窟が見えた。今の今まで気づかなかった。彼女はためらうことなく道の途中にあるその洞窟に駆け込んでいった。
入口から光が入り込んでいるものの奥までは届いていない。少し行けばそこは漆黒の闇、その境目辺りに盛り上がっている大きな岩の陰に、彼女に手を引かれるままに、しゃがんで隠れた。
二人並んで座って入口を岩の端から窺ってみる。しばらく待っても何もやってくる気配はない。だから次第に気が緩んできた。元からその晩はこれが夢だと分かっていた。そんなに緊張感が持続するはずもなかった。だから僕を追ってきていた影よりも興味は自然と彼女の方に向いていった。
色白の顔をちらりと眺める。きめ細かいきれいな肌が薄暗い中で光っているかのように見える。真剣な表情で洞窟の入口を凝視している彼女の目がふとこちらに向いた。
「な、何ですか?そんなに見ないでください」
ほんのり朱に染まった彼女の頬がとても色鮮やかに見えた。こんなに夢の中で色を意識した記憶はない。そう思ったとたん、それまで封印されてきたこの夢世界のすべての色と温度が一気に解放された気がした。いったいこのコは何者なんだろう?僕はとても興味が湧いた。だから訊いた。
「君は誰?ここで何をしているの?」
彼女の目が泳ぐ。何度か何かを言いかけては断念する様子を見せた。別に困らせるような質問をしたつもりはなかったのでこちらも困惑した。へんな夢だな、と思った。しばらくして彼女は観念したように口を開いた。
「名前は言えない。ごめんなさい。でも、私はあなたを助けにきた。それだけは信用して」
じっと真剣な眼差しをこちらに向けている。嘘の欠片も見出せない。
「僕を助けるって、何から?」
彼女は更に覚悟を決めたというような顔つきをして一気に言った。
「夢魔よ。夢に現れる悪魔。あなたは憑りつかれているの。最近、怖い悪夢を見ているでしょ。それは夢魔が見せる幻影よ」
「ムマ?確かに最近、影みたいなものに追われる夢を続けて見ているけど…」
「奴らは人が恐いと思う気持ちや焦りや混乱を糧にするらしいの。精神力、感情や気持ちなんかを憑りつかれた人は吸い取られる、いつまでも。そして気力を奪われて現実世界に支障をきたす。普通の生活をすることができなくなる。だから私は、あなたを助けにきたの」
とても夢の中らしい荒唐無稽な設定だ。ただ彼女は真剣そのものな表情を崩さない。だから疑問に思ったことをそのまま訊いた。
「なぜ、君が助けてくれるんだい?初めて会った僕のことを。僕に危険が迫っているのは分かったけど、君に危険はないの?」
その時、洞窟入口にさっと影が射した。とっさにそちらに顔を向ける。僕を追っていた影がそこに立っていた。ああ、中に入ってくる。もう逃げ場がない、そう僕が思うのと同時だった。
「理由は言えない。でも私があなたを守る。大丈夫、きっと守るから」
その声に視線を向けると、こちらに微笑み掛けながら彼女は立ち上がっていた。その手にはどこから出したのか彼女の身長よりも長い木製の棒。そしてそのまま影に向かってずんずんと歩いていった。そんな彼女の背中に向けて、とっさに立ち上がり声を掛けようとする。でも呼び掛けようにも彼女の名前を僕は知らない。
僕の声が喉で躊躇している間に、彼女は影の正面に辿り着き、気合一閃両手に持った薙刀でその影の塊を一刀両断にした。すると影は分散し、そのまま空気中に溶けていった。
やった、と思わず声が漏れた。自分に不快な感情を躍起させ続けてきた相手が姿を消したのだ。当然のごとく肩の力が抜け、高揚感に包まれた。そして眼前の彼女のことが更に気になった。今すぐにでもまた話がしたい。その欲求のままに彼女に向けて足を出そうとする、が身体が動かない。不思議に思う間もなく、すぐにその原因が分かった。それは無数に僕の身体の各箇所を掴んでいる手のせいだった。ほぼ白骨化したいくつかの手指がしっかりと僕の身体を掴んでいる。そしてそのまま僕は引っ張られていった。洞窟奥の光の届かない闇の中へと……
そこで目が覚めた。
―――――――――――
まだ夜が明ける前だった。
闇の中、彼はベッドの上で起き上がり、夢の出来事を思い出そうとした。とてもショッキングだったが、どこか高揚感のある夢。とても混乱している。もやもやとしてそわそわとした気分。誰かと会った気がする?どうにかして思い出したいと思った。
そんな思いとは裏腹に、真水に泥水が流れ込んでいくように夢の場景が見えなくなっていく。消えていく。
……会った?誰に?
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