第十話 炎の海

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第十話 炎の海

 彼女と先生が恐々と穴の中に入ってきて、立ち上がるまでけっして急かさずに手を差し伸べて補助をした。二人が内部の空間に適応できる体勢と方向感覚が整うと、僕たちはようやく奥に向かった。  赤々とした光とともに熱が奥から吹いてくる。少し行って振り返るとすでにそこに扉はなかった。もう先へ進むしかない。  二十歩も行くと洞穴は絶え、広い空間に出た。  頭上にはかなり高い所に無数の岩肌が鍾乳洞のように垂れ下がっている。足元には四~五メート程度の幅員の道があり、その両側は崖となって、落ちたら這い上がるのは難しい程度に下り、更に一面、赫々とした炎に満たされていた。  眼前の道は波打つ炎の海の間を奥まで伸びている。その道の先には、もうもうと煙が上がって視界が悪くはあったが、かなり離れた所に重厚そうな鉄製の扉らしきものが微かに視認できた。  この洞窟全体がかなりの熱に覆われている。天井が高いために一切移動できないほどでもないし、どこから吹いてくるのか微かに風もあるので耐え切れないほどでもない。かと言ってそれほど長い時間をこの不快な空間で過ごしてもいいことなどまったくなさそうだった。だから僕たちは先に進みはじめた。ゴールは見えているのだ。ただ行けばいい。ためらうことなどない。  何がそんなに燃えているのか煌々と燃え盛る炎の流れ。岸に寄っていかなくても充分にその熱量が伝わってくるが、かろうじて道の真ん中であれば進んでいけそう。そこでなるべく早く脱するために前傾姿勢になりながら足早に進んでいく。その間、炎のいたるところから、ががが、とか、ぎやあ、とか、ひいい、とか変な音が聞こえた。何かが燃えて爆ぜている音なのだろうか、そう思っていると先生がぼつりと言った。 「ここは地獄みたいだね」  へ?と思いつつ、炎の中をじっと見てみる。ゆらゆらと波打っている中、所々でジュウとなま物が焼ける音、そして上り立つ水蒸気……  ぎいやあ、という叫び声が聞こえたかと思うと同時に、波間に人の腕が見えた気がした。一瞬、身が縮こまる気がした。信じたくない思いが胸中に満ちていく。しかし更に見える。人のものらしき手が、頭が、顔が……  呆然と眺めている僕の腕がギュッと掴まれた。それではっと我に返って彼女を見るとうつむいて足元に視線を逸らしていた。 「大丈夫だよ」何が大丈夫なのか自分でも分からなかったが、彼女を安心させるために言った。それにしても凄惨な光景だった。炎の中の人々は浮かんでは燃え、燃えては沈んでいった。そして再び浮かんで燃えて、沈んでいった。無数の人々の浮き沈みに気づくと急に肉の焦げる臭いが鼻腔(びくう)に漂ってきた。それが人のものだと思うと気分が悪くなってくる。なるべくそれを吸わないように更に前屈みになりながら進む。彼女の手を取り、ただ前方だけを見て。  なるべく両脇の情景を視界に入れないようにしたが、それでも前面にその様子が見て取れる。気づくと自分たちが歩いている通路に向けて下から何本もの腕が伸びていた。どれも火が点いてひどい火傷を負ってケロイド状になっている。炎は容赦なく、火傷の上から更に焼いていく。しかしよく見てみるとどの腕も焼けた後からすぐに再生しているようだった。焼けてケロイド状になった皮膚がすぐに元に戻っていく、と同時に再度業火により焼かれていく、その繰り返し。  なんてことだ。この灼熱地獄はけっして逃れることもできないし、死ぬことさえできない。延々と焼かれて苦しんで、嘆き、もがき、我が身を呪うことしかできない。  どうにか救われようと僕たちに気づいた亡者たちがこちらに手を必死に伸ばしてくる。どうにか助けてくれと懇願するように手を差し出してくる。その手はどれも焼けただれて力なく見える。きっと焼かれ続けて自分で業火の流れから脱する力も残っていないのだろう。誰かに引き上げてもらわなければ救われない。確かに彼らの手はこちらから精一杯手を伸ばせばかろうじて届きそうな所にある。しかし、彼らの手は、腕は、炎に包まれていた。近寄ることさえ難しく、その手を取ることは自殺行為にも思えた。正直、引きずり込まれて亡者たちの仲間にされるかもしれない恐れも感じていた。彼女もいるし、極力危険は避けなければならない。無慈悲ではあるけれど、ここは見過ごしていくしかない。  見えている光景も、聞こえている苦悶の声もあえて無視して進んだ。こうするしかない、現状これが最善なのだ、自分に言い聞かせながら。すると、ふと前方からかすれた途切れ途切れの声が聞こえてきた。 「……た……すけ…て…くれ」  かつて聞いたことのある声だった。記憶の片隅に微かに残っている断片とも欠片とも見分けのつかない小さな、小さな過去の声。  炎の中から僕たちに向けて片手を大きく伸ばしている。その指先が細かく揺れ、どうかこの手を取ってと懇願するようにこちらに向けられている。その手は煌々と炎に包まれているが、その向こうに波間に浮かんでいる頭と顔も燃え続けている。焼けただれ、個人の判別などとてもできるような状況ではなかった。ただ、どうも知らない人には思えない。そしてどうもこちらの名前を呼んでいるようにも聞こえる。それなら知り合いに違いない。そんなことを考えて、その場から動けなくなっていると彼女の声が聞こえてきた。 「知っている人?」 「あ、う、うん。たぶん」 「助ける?」  彼女はその亡者のことをじっと見ている。どんな知り合いなのか見定めているようにも見える。 「やめときなさい。ここは夢の中よ。どれだけ身を焼かれて苦しそうに見えても、彼らは何も感じてはいないし、そう見えるだけ。映画の傷ついた登場人物を助けようとするようなものよ。なんの意味もない。それより、私は次の夢に出現できるかどうか分からない。だから今回可能な限り先に進んだ方がいい。あなたたちだけだと心もとないことこの上ないからね」  確かに正論だ、とは思った。だが何か釈然としない。このまま見捨てたら後々思い出して後悔しそうな気がする。確かに結果がどうなるか分からない以上、してみても後悔するかもしれない。しかし、しない後悔より、した後悔の方が自分を納得させられる気がする。だから僕は彼女に訊いてみた。 「彼を助けたい。どう思う?」  そうすることにより、彼女たちに危険が及ぶかもしれない。だからもし彼女が返答に詰まったり、難色を示すようなら即座に撤回するつもりだった。しかし彼女はちょっと、しょうがないわね、という色をていしながら微笑んで、 「うん、いいと思う」と言ってくれた。  ちょっと、と先生が遮ろうとしたが、僕はすでにその知り合いを助ける気でいた。そこで、武器を出現させる要領で金属バットを出現させた。もっと細長いものがいいのかとも思ったが、燃えない物で細長くて、と考えるととっさに思い浮かんだのが金属バットだった。  相手は岸の崖に手を掛け、片手をこちらに差し出している。その手は常時、燃え続けており、焼ける先から再生しているとはいえ、皮膚はなく、ただれて痛々しいことこの上ない。きっと力も入らないだろう。だからバットの球を打つ、太い部分を自分で持ち、グリップを相手に差し出した。近づかなくてももうもうと立ち込める熱気で息苦しいくらいだったが、炎に一歩近づくだけで身体中の皮膚がひりひりと痛んでくる。それでも知り合いかもしれない目の前の相手が必死に手を伸ばしてグリップを握ろうとしている。僕はなるべく熱を避けるために顔を背け、視界の端で相手の姿を確認しながら腕を限界まで伸ばした。そして相手の指がグリップを掴んだ、と確認すると後ずさりしながらゆっくりとバットを引いた。するとすぐに相手の指がバットから離れた。それですぐにまたバットを相手に向けて伸ばす。相手も手を伸ばして引き続きグリップを握ろうとする。しかしなかなかしっかりと力が入らないのだろう、こちらが引くとすぐに手が離れて業火から脱することができない。そうこうするうちに相手の手に点いた火がバットを熱して、それが伝わってきて、思わす、熱っ!と声を上げて、目を覚ましてしまった。  次の日の夢も業火の中だった。  周囲を見渡す、彼女も先生もいない。  まだ時間は早い。現実では夢の中での出来事をほとんど覚えていないけれど、なぜか無性に夢の世界に入りたくて、特に眠たくなくても早く寝てしまいたいという欲求に抗えず、最近は日々さっさと就寝するようになった。この夢に彼女たちが来るためには彼女たちも眠る必要があるようだし、まだ二人がいなくても当然と言えば当然だった。それに先生は昨晩あんなことがあったから、なかなか来ることができないのかもしれないし。  僕の場合、現実世界では一人でいる方が煩わしさがなくていいのだけれど、最近は夢の中に一人でいると落ち着かない。夢の中に入るたびに、彼女に会いたい、その一心でこの世界に来ているのだと思い出す。しかし今晩、彼女が現れてくれるのかどうか、待ち合わせの約束をしている訳でもないし、彼女が来なければならない理由も知らないから、何ら確信が持てない。胸の中が無性にそわそわする。  ただ現れてほしいと強く望む反面、あまり期待しすぎない方がいい気もする。正直、彼女がこの夢に来て何かにつけて手伝ってくれたり勇気づけてくれたりする、その本当の理由が判明した時に衝撃を受けてしまうかもしれない。彼女のことを幻滅したくない。彼女と離れてしまう事態に陥りたくない。だから期待しない方がいい、きっと理由も訊かない方がいいのだろう。そんなことを考えていると背後から、 「ごめん、待った?」と彼女の声が聞こえてきた。
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