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第二話 忘却の彼女
それから三日間、彼は夢を見なかった。見たのかもしれないが、覚えていないということは少なくとも追いかけられて落ちるような印象の強い夢ではなかったのだろう。
その数日間、悪夢を見て起きた日のように寝足りない、疲れ切った感覚はなく、とても目覚めがよく毎朝、健康を実感した。ただ、特に持病もない若い彼にとって健康は特別なものではない。単に元に戻っただけのこと、当たり前に漫然と同じような日々を過ごすだけ。
彼は大学に通っている、とても真面目に。
そもそも彼は小学生の頃から毎度、皆勤賞がもらえるほど真面目に学校に通っていた。
特に学校が楽しくて、学校が好きでそうしていた訳ではなかった。ただ家族や周囲のみんなに無駄な心配をさせたくなかった。毎日を波風立てず、ただ淡々と過ごしていたかった。
いつだったか彼は気づいてしまった。まだ小さく世間を知らない頃は、自分が特別な人間で、いつか誰もが驚く偉業を成し遂げ、人々から尊敬される人になるんだと思っていた。まだ潤沢に時を残しているだろう自らの未来に対してそんな幻影を見ていたが、少しずつ勉強でも習い事でもいくら頑張っても一番になれない、よくて二番か三番で、たいていは人並み程度、という現実に直面した。おかしいな、自分はもっとできるはずなのに、他の人の方が評価が高い、何て思いはじめたら更に、もしかしたら自分には何に関しても一番になる才能がないのではなかろうか。もし今後、誰よりも得意なことができた、胸を張って一番だと言えることができたとしても、それは恐らく小さなコミュニティーの中でのことでしかないのだろう。もっと広く比較範囲を拡大すれば、きっと更にすごい人が腐るほどいる。けっきょく自分には大したことなんて成し遂げられない、などと結論が導かれ、必死に頑張ったところで自分は良くて人並み程度なのだろう、と思うようになった。
そういう彼にとっては真理でしかない感慨を抱えていると、胸の内が虚無感に蝕まれ、上を向く気になれなくなった。だから彼は淡々と日々を過ごすようになった。余計なことは考えず、なるべく静かに、穏やかに。喜ぶことはないけれど、その分、悲しんだり苦しんだりすることも少ない生活を淡々と。
そうやって生きていると次第に周囲への関心が薄くなっていった。物と人の区別があいまいになって、誰が壊れようが、何が泣いていようが、誰が廃棄されようが、何が怒っていようが気にならなくなった。いつしか彼にとって現実世界の意味合いは、その程度でしかなくなった。
ただ、そんなおぼろ気な日常の中で、少しだけ心の中に引っ掛かることがあった。時々、心臓を鷲掴みにされているかのように、胸が苦しくなった。何か大切なことを忘れているような気がする。のんびりと日々を過ごしていてはいけない気がする。それがなぜかは分からないけど、何か大切なものを見失った気がする。どんなに考えないようにしても喪失感が落ちないシミのように胸の中にこびりついている。
その原因を彼は講義を受けている間、ぼーっとするついでに考えた。記憶を辿って思い出そうとするが、よく思い出せない。ただ、その原因がどうやら先日見た夢にあるのではないかと思いいたった。三日前に夢から覚めたその朝から、胸の中にがらんどうが空いている気がしていた。ただ、その夢がどんな夢だったのかは覚えていない。夢の出来事など忘れることはあっても、いったん忘れてしまえば思い出そうとして思い出せる代物ではないだろう。それでも気になってしょうがなくて、肝心なところを思い出せない自分に舌打ちするしかなかった。
そんな日の夜、彼は夢を見た。そして、ああこれだ。忘れていたものは、失っていたものはきっとここにある、そんな予感に高揚した。
――――――――――
そこは荒廃した街の跡。崩壊したビル群、飛び散ったガラス片、波打ち所々割れて思いのままに傾斜しているアスファルト、そんなかつては多くの人が住んでいた証しの残滓が積もった、ただの廃墟の中だった。
僕は崩れかかったビルの中、所々に空いた穴から微かに入るほのかな光によってかろうじて内部を見渡せる部屋にいて、瓦礫に隠れて灰色の場景に目を凝らしていた。
やはりその時も僕の胸の内には不安が渦巻いていた。なぜだろう、無性に落ち着かず、いたたまれない。でも、心の片隅にほんのりとした希望があった。その正体は分からない。実体を備えているのかも分からない、ただの幻想かもしれない希望。
胸に手を当て、そんな希望を確かめたくて捜す。何を捜しているのかも分からないままに捜す。この希望が本物であることを願いながら。
背後からコンっと音が聞こえた。とっさに振り返る。どうやら天井が崩れかけて小さな欠片が落ちてきたようだ。その証拠に更にいくつかの欠片が落ちてきた。
“崩れかけている。街全体が、もうすぐ、崩壊する”
そんな予感が忍び寄ってくる、と突然、外からガガガガと耳朶を圧する振動が襲い掛かってきた。慌てて外に視線を向けると道を挟んだ先にあるビル群の一画が折り重なるように次々に崩れていた。
立っていられないくらいに地が揺れる。天井から小さな欠片や大きな瓦礫が降ってくる。まずい、このビルもこの振動に耐え切れずに崩壊してしまうかも、そう不安を覚えてしまうと、いてもたってもいられずに這うようにして外に出た。
しばらくして揺れが納まった。すると自分が周囲から丸見えの道の真ん中に立っていることに思いいたった。早く隠れないと、と周囲を見渡し適した場所を探していると、突然、
「おーい。ねえ、こっち、こっち」とやや抑えた声が聞こえた。慌てて首を回して声の主を探す。すぐに右後方に建っているビルの二階に彼女がいるのを見出した。そのビルは道路に面した壁が全面ガラスでできていたのだろう、大量の割れたガラスを道路に撒き散らし、一片の欠片も残さずに吹き抜け状態になっていた。だから彼女の姿はよく見えた。胸の中が暖かい。安堵する自分がいる。自分が喜んでいるのがよく分かる。
「待ってて。すぐに行く」
僕はそのビルに入り、非常階段を見つけると駆け上った。こうして走っている間に、彼女が姿を消してしまいそうで、慌てて見当つけて部屋に駆け込んだ。果たして彼女はそこにいた。
思わず笑みがこぼれる。
「やあ、また会えたね」
名も知らぬ彼女もニコリと笑っている。
「うん。また、あなたを助けに来たわよ」
壁の陰に隠れて外からは見えづらい瓦礫の上に腰掛けて僕たちは語り合った。
僕は現実世界ではあまり口を開くことがない。そうしようと思うでもなくそうなっていた。周囲の人々も特に、僕に興味なんてないのだろう。積極的にこちらから話し掛けようとしなければ話す機会などあまりない。そして一番の問題はきっと、そんな状況を別段不自由とも不快とも思っていない自分の社会性のなさなのだろう。その方が格段に楽なので特に変えようとも思っていなかった。そんな状況だったので、こんなに人と話したのはかなり久しぶりだった。ただ、不思議なことに彼女相手だとそんなこともすっかり忘れてしまう。まるでずっと昔からいつも二人で語り合ってきたかのようにごく自然に話をすることができた。
僕はたくさん彼女に質問した。疑問に思っていることだらけだったから。それに彼女のことをよく知りたかった。でも、彼女は自分のことに関してはほとんど話してくれなかった。前回同様名前すら教えてくれない。その代わり、僕に関すること、特に夢に関することは恐らく知っていることを全部教えてくれた。
「この前、夢魔があなたに憑りついているって話したでしょ。私が現れて抵抗したから少し警戒してたみたいだけど、まだ全然、諦めてはいないみたい」
「ねえ、なんで僕が狙われているんだろう?そのうち憑りつく対象が別の人に変わったりしないのかな?」
「それは…、私もあなたの夢に来て、なんであなたが狙われるのか分かった気がする」
「なんで?」
「それは…、あなたの夢には他の人がいないから。あなたの夢にはあなたしか人がいない。だから夢魔はあなたを特定しやすい、襲いやすいってことなんだと思う。逆に言えば夢魔は他の人がいればあなたを特定しづらくなるんじゃないかしら。だからこれからは夢に出てくる人を増やしたらいいと思う」
「夢に出てくる人を増やすって?どうやって?」
「う~ん…分かんない。ただ、あたしの経験から言うと現実世界でよく会っていたり、普段から意識している人がよく夢に出てくる気がする。だから普段から夢に出てきてほしい人のことを意識してみたらどうかな」
それは、僕には、難しい、とは言えずにしばらく黙った。そんな夢に出てきてほしい人なんて現実世界ではなかなか心当たりがない。どうしよう?と思っていると彼女が明るい声を発した。
「そんなに難しく考えないでいいよ。周りにいる人のことを普段よりちょっと意識してみたらいいんじゃない。心配しなくても、私もなるべくやって来るつもりだし」
胸が暖かくなる。素直に嬉しい。無意識ににやけてしまう。
しかし喜びの余韻に浸る間もなく突然、地が揺れだした。
「夢魔ね」身構えながら彼女が言う。
縦揺れ、横揺れ、次第に強く揺れていく。天井から小石や砂が降ってくる。やがて崩れた大小の欠片が降ってくる。外の空間に並び建つビル群すべてが徐々に傾き、倒れていく、崩れていく。
「これは夢、あなたもあたしも死ぬことはない。どんなに苦しくても、どんなに痛くても、目が覚めれば元通りになる。ただ、痛みや苦しみに慣れてしまえば、夢魔の攻撃もエスカレートする。耐え切れないほどに。だけど大丈夫。あたしが助けにくる。何度でも。あなたが負けない限り」
揺れに抗って立ち上がる彼女、右に左に移動しながらもじっと真剣な眼差しを僕に向けた。
そして床が崩落した。いや床だけじゃない、建物全体が粉々になっていった。
思わず身の毛がよだつ。しかし視線は彼女の姿だけを捉え、思考は彼女の身を案じ、指向は彼女に手を伸ばす。
僕たちは落下していった。大量の瓦礫とともに、ゆっくりと、ごくゆっくりと。
そこで目が覚めた。
――――――――――
また真夜中だった。
彼は目を開くと、横たわったまま集中して夢の中の出来事を思い出そうとした。しっかりと覚えている。良かった。忘れないようにしよう、とほっと安堵の息を吐いた瞬間、記憶が飛んだ。今、確かにあった夢の記憶がぱっと弾けたように一瞬にして姿を消した。
しまった、と彼は歯噛みする思いに襲われた。もう無理だ、諦めるしかない、とため息を吐く。ただ、無性に人に会わなければ、人と話さなければと思った。そうしないといけない、そういう義務感が脳裏に充満していく。
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