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第三話 靄の群れ
それから彼は毎晩のように夢を見た。目が覚める時に夢の内容を忘れないように気をつけよう、と意識して寝入るとけっこう効果があった。ただ、肝心なところは思い出せていない気がする。いつも恐怖や焦り、そんな感情の名残が寝ぼけた頭に残っていたから、苦痛を感じる悪夢であることは間違いなかった。ただ、その中に希望が、喜びがあった気がする。誰かと一緒にいたいと思い、それが叶えられた気がする。それが誰のことなのか、どんな話をして、どんなことがあったのか、一切思い出せなかった。なぜだ?気のせい?勘違い?それにしては、高揚した気分の残滓が目覚めても、どれだけ時が経っても消えやしない。だからその謎を知りたくてまた夢を見るために目を瞑る。とても深い、とても濃厚な夢の世界へ。
――――――――――
空に突き刺さるようにそびえ立つ高いビル群に囲まれた繁華街の一画に、僕は立っている。
夢を見る、ということを意識して眠ると、夢の中でも思考が明晰になるようで、その日、僕は夢の入りからこれは夢だと認識していた。
すべてが動きを止めている、そう意識するととたんに周りのすべてのものが動きはじめる。まるで自動センサーでもついているかのように僕が知覚したり、動き出すと周囲の世界も稼働をはじめる。
種々雑多な広告看板がそこかしこに掲示されている。奇抜なデザインの店舗ビルもあちこちに。華やかな色彩で溢れかえって目がちかちかする。現実世界でそう意識しているせいか、かなり僕の夢にも色相が増えてきた。また、全方位に数多くの人がいる。こちらも現実世界で周囲の人を意識した成果なのだろう。ただ、どの人も色がぼやけている。何やら人型の靄がふらふらと歩いているような感じでしかない。これは彼女が見たらあきれるかな、と思っていると見つけた。
ぼやけた人々の向こう側、かなりしゃれた感じの雑貨屋のウインドウをのぞき込んでいる彼女がいた。靄人間たちの間を縫って声を掛ける。
「待った?」
白Tシャツにジャージを着た身体ごとくるりと振り返る。
「今来たとこだから、全然待ってないよ。あと、こんな街中に来るんなら事前に教えてよ。思いっきり部屋着で来ちゃったじゃない」
いたずらそうに微笑んでいる。僕も微笑み返す。
「何を見ていたの?」
ウインドウの中を見てみる。宝石箱といくつかのアクセサリー。指輪にピアスにネックレス。照明にきらきらと煌めいている。その中で目を引いたのは、雫型の飾りがついたネックレス。僕の視線に気づいて彼女もそちらに目をやる。
「ほしいの?」何気なく訊いた。
「何かキラキラしててきれいだなって思っただけ」
そう言いつつじっとそのネックレスを見つめる彼女に、買ってあげたい、プレゼントしたい、と強く思った。でも、その時、周囲の靄の中から叫び声が上がった。とっさに視線を向ける。靄はぼやけているから表情が分からない。形でだいたいどこを向いているのかは分かるが、はっきりとその視線を追うことができない。慌てて叫び声の原因を探すが見つからない。そのうち、更なる叫び声、周囲がかまびすしくざわつき、靄たちが一方向に向けて雪崩のように群れになって移動していく。
「行こう」と彼女の手を取り靄の群れとともに駆け出した。まだみんなが何から逃げようとしているのか分かっていないが、じっとしていてはいけない気がする。
「ねえ、私、夢の中に人を増やしたらって言ったけど、言い方が悪かったみたい。もっとリアルな人が良かったかな。この人たちの中だと逆に目立ってしまう気がする」
「仕方がないよ。突然、改善するのは難しい。これでも努力したんだ。それっぽいのでも現れただけ進歩したと思うんだけど」
「そうだね。うん、仕方がない。頑張ったんだもんね。それとどこかに隠れた方が良さそう。もう、当然、夢魔に見つかっているだろうから、逃げ切れるかどうか分からないけど、急いで隠れよう」
そんな話をしている間に、靄たちの流れに押されるがままに街の中心部にある芝生広場に出た。周囲に隠れる場所はない。慌てて他の場所に移動しようとした矢先、周囲の靄たちに異変が生じた。それまで何とか人の形を保っていた靄たちが次第に頭や腕や足が胴に吸収されて丸い塊に変化していった。そしてそれまでまったく僕たちのことなんて気にしていない風だったのに、一斉にこっちに向かって寄ってきた。一気に僕たちの周りに押し寄せてきた。慌てて逃げるために彼女の手を取り、けっして離さないように強く握って走り出した。しかし更に靄が集まってくる。四方八方から向かってくる無数の黒い大きな球体を掻き分けて進む。すると突如、背後から叫び声が聞こえた。振り返ると彼女を何体もの靄が捕らえていた。慌てて彼女の手を引き、その足にまとわりついている靄たちを振り払う。が、その間も僕の身体に無数の靄が取り付いてきた。払い除く間もなく次々と。僕たちは次第にのしかかられ膝を曲げていく。次々に積み重なって、圧迫されていく。このままでは押し潰される。息は荒く、心拍数が上がる。ただ、彼女の手だけは離さない。どうにか彼女だけでも助けたい。
「大丈夫?しっかりして」
「…苦しい。潰れそう…。もう駄目かも…」
周囲は靄に満たされて彼女の姿はもう見えない。ただ、微かに声だけが聞こえた。彼女の手を握っている僕の手もすでに靄に包まれている。僕は胸が強く圧迫されて焦りを感じた。自分が無力だなんてことは、こんなに実感させられるまでもなく分かっている。だからどう抗ってみたところで何も変わらないってことも分かっている。でも、彼女を助けたい、そう思うとどうしたってこの状況に対して抗って、現状を脱したいと強く、心の底から指向する。しかしそれでも現状を打破できない苦しさに呻いて、悪態吐いて、叫び声を上げた。
そこで目を覚ました。
―――――――――――
また真夜中。
また夢の記憶はすぐに消え去った。ただ、誰かを守れなかった自責の念だけが彼の胸の中で強く濃くわだかまっていた。
――――――――――
次の夜、見た夢で僕は昨夜と同じ繁華街の違う場所にいた。周囲にはまたもや靄人間たちがうじゃうじゃ蠢いている。こいつらはけっして味方でも無害でもない。恐らく夢魔に操られたのだろうけど、あからさまに敵対してきた。どうにか対抗する手段を手に入れないといけない。そもそもこいつらは人の姿はしていてもはっきりとそれと言えるほど出来は良くない。たとえ打ち倒さなければならないとしても躊躇する必要は感じられない。ただ、その前に見つけなければ、会えることを心待ちにしている唯一のひとを。すると離れた所で声が聞こえた。
「もう、こっちに来ないで。あっち行って。どこかに行って」
聞き覚えのある声。僕は慌てて声のした方へ向かった。周囲の靄人間たちもともに彼女がいるだろう場所に向かって駆けていく。僕は途中、道に立ててあった、そこにある店の何かの宣伝用幟旗を抜いて、走りながら横棒と幟を取り外して支柱だけにした。あまり頑丈ではなさそうであったが、一人二人なら撃退することができるかもしれない。
飲食店や雑貨屋、服飾店や宝飾店、雑多な店舗が並ぶ幅の広い歩道に挟まれた車道の一画に靄たちが集まっていた。その先から彼女の声が聞こえる。
「きゃ、やめて」
「やめろ、どけ。彼女から離れろ」僕は靄人間たちを掻き分けながら彼女に近づく。幟の支柱を振るうと当たった先の靄人間は本当の靄のように手ごたえなく斬られ、霧散霧消していった。何度か支柱を振っている間に白地に花柄のワンピースを着た彼女の姿が見えた。必死にこちらに手を伸ばしている。僕はその手を掴むと引いて走り出した。
また逃げる、逃げ続ける。しかしそのうち彼女が追いつかれて捕まった。僕は必死に抵抗した。支柱を振り続け、彼女の服を掴む者、手を引く者、行く手を遮る者を次々に霧散させた。そのうち、壁や床に当たったせいだろう、支柱が半ばからぽっきりと折れた。それでも振り続ける。靄たちを撃退し続ける。しかし、この街には人が多すぎた。僕が、僕一人が抵抗したところで伸びてくる手は無数で、対抗しきれない。やがて彼女は靄に包まれて姿を消した。僕も捕まって動けない。何より悔しく、挫折感に苛まれる、苦痛でしかない情景に無意識に叫び声を上げた。その声に目が覚めた。
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また守れなかった、誰かを、大切な誰かを。
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翌晩の夢にも彼女は現れた。今回は靄たちよりも先に見出すことができた。だから地下街に逃げた。地下街を走って地下鉄の改札を通ってホームに降りて、その端にある柱の陰に隠れた。ここならすぐに見つかることはないだろう。
息も絶え絶えになってどちらからともなく柱に背をもたせかけてその場に座り込んだ。彼女は先日同様、白Tシャツにジャージの姿だった。
「今日は逃げ切れたね」
「そうね。昨日は街中に来るかもってちょっとオシャレしちゃったから走りづらかった。今日は反省してまたこの服にしたの。部屋着だけどね」
「君の服って意識して変えることができるの?」言いながら自分の服装を確認する。それまでまったく意識していなかったのだが、気づいたらいつも部屋着にしているTシャツとスウェットパンツの組み合わせだった。
「ええ、私があなたの夢の中に入るためには私も眠らないといけないんだけど、その眠った時の服装が反映されるみたい」
「へえ、じゃ昨日はあの服で寝てたんだ」
「そうよ。街にお出かけ用。でもあんまり街に出掛けることがなかったから、初めて着たんだけど、さんざんだったね。夢の中でオシャレするもんじゃないってよく分かったわ」
すごく穏やかな時間が過ぎていった。僕は、たぶん彼女も、靄人間のことも夢魔のことも忘れていた。このままこの時間がいつまでも続けばいいのに、と思った。もう、現実世界に帰りたいとは思わない。このままがいい、そう思えた。しかし何事も僕の思い通りにはなかなかいかない、それが現実だった。
ホームには誰もいなかった。気配すらない。音もしない。
「今日はもう襲ってこないのかもね。ちょうど夢魔のお休みの日だったのかも」
彼女は立ち上がり、ふらりと歩き出した。僕は少し胸騒ぎを覚えた。まだしばらく油断しない方がいい気がした。だから彼女に手を伸ばした。
「もうちょっとここで隠れていよう。もう少し…」
伸ばした僕の手がぱっと光に包まれた。手だけではなく、周囲のすべてが強い光に照らされた。その光は、彼女の向こう側から接近してくる二つのライトから発せられていた。一瞬にして地下鉄車両が接近しているのだと気がついた。もちろんここは駅のホームなのだから、それはごく当たり前のこと。しかしその車両はあまりに唐突に現れた。音もなく、振動もなく一切気づかれることなく、そして減速することなく近づいてくる。とても不穏な光、瞬時に恐怖に囚われる。恐らく彼女も同じように感じたのだろう、こちらに背を向けてその光を凝視していたが、ぱっと振り返り僕の方へ焦燥感に満ちた表情で助けを求めるように手を伸ばした。そして次の瞬間、彼女の姿が消えた。まさにその光に捕食された。更にその光は近づいてくる。減速することなく、襲い掛かってくる。
最大限に目を見開く。あまりのことに声も出ない。それでも口を大きく開き、無意識からの声を発する、その瞬間、目が覚めた。
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ベットの上で上体を起こし、両腕を抱きしめた。全身くまなく小刻みに震えている。これ以上なく恐ろしく、悲しく、苦しい夢だった気がする。これまでに見たことのないほどに。
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