一本の桜の下で

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今日は暖かい。 春である。 一本の桜の下で そのシェアハウスには沢山の桜が植えられていた。 よって、花見は容易に華々しく行える。 しかし、アキノが指定したのは小さな中庭の、一本桜の下だった。 アキノはいつもと変わらぬジャージ姿で客人を待つ。 ビニールシートの上に重箱と缶ビールとオレンジジュースのペットボトルを数本置いた時、ユウリに呼ばれた。 チャイムの音が聞こえてシェアハウスの玄関へ向かう。ユウリは既に客人であるワセをリビングに入れていた。 メガネの少年は、こんにちは、と小さな声で大家であるミオに挨拶をしている。 ミオも笑顔で答えたのでほっとしたようだった。 「大竹さん、昨日ぶり」 アキノが声を掛けると、ワセはこんにちは、と返してくれる。 昨日も通話をしていたので、顔を見るのは久しいが懐かしい感じもしなかった。 「此処に引っ越してきた時以来だっけ?」 ユウリが話しかけて、ワセもさっきよりリラックスしているみたいだ。 二人を連れて中庭に入ると、ワセは周りをきょろきょろと見渡した。 「いつ来てもおしゃれば空間だね」 ビニールシートに座って一本桜を見上げる柑橘の眼に、ピンクが映る。 オレンジジュースを注いだ紙コップを渡し、アキノも缶ビールのプルを開けた。 取り敢えず、と乾杯をする。ユウリもオレンジジュースだ。 缶ビールを傾けるアキノをワセが見ていて、こいつ不良だから、とユウリが告げ口をした。 呑みたい?と冗談で言うと、ぶんぶんと首を横に振っていて笑う。 シェアハウスの家事担当であるタダノブが作ってくれた重箱を開けて、三人で感嘆の声を上げた。 「卵焼き出汁派なんだ」 「大竹さんち甘い派?」 「どっちも作ってくれる」 そんな小さな会話にも、ワセの家庭環境が伺える。 ワセは、高校に通わず一人暮らしをしていた。 桜の花弁が地面に落ちていく。 柑橘の眼がそれを一つずつ見つめているのに、アキノは気付いた。 アキノとユウリは花より団子を楽しんでいたが、ワセは桜を見上げ、箸もあまり進んでいない。 「凄い見るんな」 アキノが指摘しても、視線は変えなかった。 「だって、桜がこんなに綺麗だなんて知らなかったから」 春がトラウマであるワセにとって、桜は不幸の象徴だ。 しかし、この桜は綺麗だと言った。 「こうやってまじまじと見る事も無いよなあ」 ユウリもアメジストの眼をピンク色の樹花へ向ける。 そういうものなのか、とおにぎりを頬張りながらその感受性に感心した。 花見は、慎ましく静かだった。 暫く重箱の料理をつつきつつ、三人とも黙って桜を見ていた。 吹き抜けから中庭へ入る風が花弁を散らす。 降り注ぐピンク色がビニールシートに散らばった。 「降ってきた」 ワセが、ぽつりと呟く。 「雨か?」 「ネタが降ってきたって意味でしょ」 アキノとユウリが漫才をして、ワセは持って来ていた自分の鞄を漁った。 中からノートをシャーペンを取り出し、何かを一心不乱に書き出す。 アキノはその行動に共感を持てたが、ユウリは興味深そうに見ていた。 ノートは、読み取れない記号や線でいっぱいになっていく。 そのノートにも、花弁は落ちた。 こういう創作メモというものは本人にしかわからないものも多い。 アキノもそうなるので気持ちがわかった。 「大竹さんて創作気質だよね」 ぽつりと言うと、ワセは柑橘の眼をアキノに向けて首を傾ける。 「そうかな?」 「うん。だからあんなに作れるわけだし」 「凄いよね」 ユウリも同意した。ワセは照れて口角を上げる。 小林ワセは、大竹早生と言う名で音楽を作っていた。 その投稿速度は凄く、週一で新作を上げている。 アキノも創作ペースは速いが、感心していた。 ワセがシャーペンを置くまで、皆無言だった。 「なんか、妙な空気になっちゃってごめん」 帰り際にワセは頭を下げる。 「気にしないでよ。しっとりお花見も良いからさ」 「そうそう、本当に気にしないで」 念を押さなきゃ引き摺るであろうから強めに二人は言う。 ワセはほっとした顔になり、別れを告げてシェアハウスから出た。 何でもない、春の日の出来事。 何でもない事が良い事なのだ。 三人の人生が、そんな何でもない事だけで満たされればいい。 中庭で花見をしてみて、アキノはただそう思った。
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