その十

1/1
前へ
/12ページ
次へ

その十

”あの日…、俺は営業に出て昼メシを済ませたあと、ひと眠りを決め込み、都内某所の2車線道路脇にあった路肩スペースで社有車を止めたんだった。で、運転席のシートを下げて仮眠していた。しばしウトウトしてたら、運転席のウィンドウをコンコンとたたく音に気付いたんで、瞼を開けた。すると、窓越しにはスーツ姿の若い女が立っていたんだ…” 境ノブアキの開いた記憶の扉からは、鮮明に”あの時”が飛び出てきていた。 そう…、まだ20代で新婚数年目だった若かりし日の彼は、前方に停車中の黒い練馬ナンバー車から降りて来たであろうその女性を一目見て、”おお、好みじゃん!”と無言で呟いてしまうのだった。 その彼女は、要するに、境に助けを求めていた訳で…。 ”あのヒト、タイヤがパンクして安全な場所ってことで、とりあえず、俺が止めていた車の前に停車したと…。あいにくJAFにも入っていないし、あの時代だからケータイもない。なんでも、その女性、マイカーで出先の仕事中ではあるがここらの土地感に乏しく、どこか近くに公衆電話ないですかと…、控えめに聞いてきたわ。その際、お昼寝のところ、大変恐縮ですがと、ホント、申し訳なさそうな顔して…。多分、ウトウトだったが、何となく人の気配は感じてて、この女性は結構、俺を起こすのためらって、どうしよう、どうしようって…。さりげにタイプの女性だって伝わったんだ。で…、ガソリンスタンドでバイトしてた経験を持つ俺は、応急措置を心得ていたんで、一肌脱ぐ気になって…” *** 「…あの、スペアタイア乗っけてますか?」 「ああ、はい…。後ろに確か…」 「じゃあ、ここのスペースなら作業できるんで。自分がタイア交換してあげますよ」 「えー!ホントですか⁉…でも、そちらもお仕事みたいだし…、お時間とか、大丈夫なんでしょうか…?」 「もう、たっぷり昼寝済ませたんで。かえって、起こしてもらって助かった。多分、10分かからないので…」 「じゃあ、スイマセン!お願いします…」 小柄でショートカット…、でもどこか体がシマッテル感もあり、スポーティーかつ素朴な笑顔が癒しとソソリ双方を兼ね備えてと…、そんな彼女は彼的にはそのものズバリ、ビンゴレベルで”タイプ”だったのだ。 若きし境は手際よく、ジャスト7分でジャッキアップから始まるオーソドックスなタイヤ交換作業を終えると、その女性には感激され、感謝され、とても気分がよい時間を持てた。 ただそれだけだった…。 もっとも、その女性は作業代を払いたいとか、改めてお礼をしたいから連絡先をとかを申し出たのだが、この時の彼は、”いえ、いいですから。いいんですよ、そんなコト…”で通したのだ。 で、そのまま、彼女とわかれて、そこで終わったと。 無論、彼女は最後まで恐縮してて、”スイマセン””ありがとうごさいました!””ホントに、親切な方ですね…”とかって、これでもかってくらいお礼と感謝を繰り返していた。 だが、結論…、境はそれっきりなんて、なんてもったいないことしたんだ…、と、ずっと後悔することになる。 ”ああ、出来ればまた会いたかったな” これが偽らざる彼の本心で、言わばずっと長い間、心の引き出しに”この時とその彼女”を大切に(未練がましく⁉)閉まっておきたいという深層心理が根っこになっていたのであろう。 それを…、その淡くも清らか&若き日のささやかな一編を、何と、ユーレイの…、色情霊にすっぱ抜かれ成りすまされ、唆しに現れたのだ! 彼のなんともどんよりとした衝撃は察するに余ると言えた。 だが…、一方で! 肝心なのは、”その先”にあることなど、この時点で彼は百も承知だった…、となる。 そこで、彼は恐々ではあったが、もう一つの記憶を紐解く次のステップを踏まざるを得なかった。 *** ジャーッ…! 目をつぶり、頭からシャワーを浴び続ける境の、さっきの夢じゃないのか、幻覚ではないのかって範疇に括りたい、忌々しいアイツとの間…、その間のやり取り…。 こっちの記憶は、まさに今さっきの”出来事”なはずなのに、どうしてもはっきり思い起こせない…! だが、しかしながら…。 で、残念ながら、彼の脳裏には薄ら確かなアイツとの”接触”というナマ感はしっかりと刷り込まれていたのだ! そして…、その生ナマな遭遇の実を彼は感覚として掌握していた。 ”結論、今夜のところは振り切った…。あの浮遊霊…、色情霊なオンナの誘惑を…。でも…” 手に持ったシャワーを目線あたりにある上部フックに収めると、彼は両手でユニットバスののっぺりしたカベを押さえつける格好で、シャワーの下へ頭をやり、生ぬるい湯の雨を更に浴び続けた。 で…、ほどなく下を向いた状態で両眼を開いてみた。 ”やっぱりだ…。ヤバイや、これ…” 彼は心の中でげんなりうなだれていた。 その目に入った、自身の下半身が”その状態”に、しっかりとナリを得た 、そのザマを見届けて…💦
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加