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その五
境の動揺は尋常ではなかったが、それでもなんとか彼は業務への責任感から、残りの立直時間を無事にこなし、事務所内に戻り、持ち物検査と収受集計を済ませてローカに出ると…。
休憩時間中の加瀬がトイレから出たところで境と目が合った。
「やあ、境さん、お疲れ!えーと、今の立直は下りだったっけ?」
「ああ、加瀬さん…。ただ今、下りレーンから解放されました…。ふう…」
境は立直を終えた新人にねぎらいの言葉をかけてくれた加瀬へは、意識的に意味深な言い回しで、そう答えた。
帽子をとった額の汗を拭いながら…。
***
すると、ベテランの加瀬はすぐにピンときたようで、境の今拭っている汗は脂汗の範疇だと見切れていたのだ。
「君…、30分、休憩だよな?オレは早寝なんだが、これから一服するんで、喫煙室にいるから…」
「わかりました。トイレ済ませて行きます」
そして数分後、二人は他に誰もいない喫煙室の長椅子へ横に並んで腰を下ろして、まずは無言でスパスパやっていたのだが…。
「さっきのアンタの顔色、やけにヤバヤバな感じに見えたぞ。なにか、やらかしたか?」
「いえ…、収受は特にミスとかなかったです」
「ということは、単なる疲れか、あるいは…」
「後者の方です」
二人の会話は実にブラッシュアップされていた。
「なら、例の黒い染み跡で何か起こったとかかな?」
「はい…」
「女のヤツか?」
「そうです…」
「…」
ここで二人の低いトーンではあったが、テンポのいいリズム感を伴うやり取りは終わる。
***
この後、加瀬はやや眉間にしわを寄せ、たばこの煙をひと吐きしながら、ボヤキ調で呟く。
「ふう…、いちいち気にすることないんだよ、あんなの。それ、できりゃあ、何のことないのに…。一人立ちしてしばらくは、はつらつとしてブースに立っていたようなんで、すっかり吹っ切れたと思っていたんだが…」
加瀬からのこの言葉…。
現在の身の上、心境の境ノブアキには、あったかくもありがたい心遣いとして胸の芯に染み入る思いだった。
「すいません。普段は無視できても、何かきっかけが起こると、どうもそっちのせいじゃないかと自然に思いが廻って、気が付くと見ちゃうんですよ、やっぱり…」
「まあ、このオレがいちいち、じゃあ、そのきっかけってなんだって問い質したって、根本は解決しないだろ。結局は本人の気の持ちように行き着くんだから。とは言え、それを振っ切るにはそれなりの自己納得と論拠になる答えがないとな…。所詮、モヤモヤが頭から消え失せなくてはごまかしごまかしだし…」
”加瀬さんの言うことは、いちいちごもっともだ。今のままなら、このオレ…、いずれこの先、あっちに持ってかれるかもだ。じゃあ、どうすればいいか…。できれば、この職場は低賃金ながら勤務分は安定して手元に入る。この年になって今の身の上なら、せっかく独り立ちで同僚の手を煩わせない最低ラインをゲットできたんだし!手放したくねーよ、やっぱ”
境ノブアキの胸中は、まさにこの葛藤で身を裂かんばかりに模索苦闘していた…。
***
そんな後輩の、丸ごとを理解していたうえで、加瀬は迷った末、然るべき進言を境に提示する。
「境さんがこの職場で一生懸命やっていこうという真意は、なんとなくこのオレには伝わってるんでね。まあ、ここはヤローの定年退職高齢者が健康なうちに少しでも日々の足しにできればって、そんな余暇活かしってレベルが多い。自分もその類だよ、実際な。そんな中、一周り年が下のアンタが、俺らとは違うシビアな事情を抱え、ココで長く勤めたいというなら、それを拒む問題解決への”根本”に飛び込んだ方がいいのかもな。ここは思い切って」
境は加瀬の言わんとするところはイメージできたし、同感であったが…。
じゃあ、実際にどーすりゃいいの、オレ…、の答えは見当たらない。
しかし、その答えを加瀬はとうの前から用意していたようであった…、のだ。
そしてその提案は極めて単純明快の、”それ”であった。
「…どうだい?ココをソレ系で辞めた一人…、ああ、ノイレーゼの方じゃない、後から辞めた方だが…。その人と会って、いろいろ話を聞いてみるかい?」
加瀬からのこの提案は、文句なく、境にとって渡りに船といえた。
「えっ…?本当にいいんですか…?直接その人と会って、いろいろ聞いても…?」
「うむ…。彼、F氏とは今も年に数回はやり取りしてて…。もっとも、彼とはあの女の話題は全くない。それは直接会ってアンタからね…。たぶんF氏は話してくれると思うんだ。で、そうとなれば、急いだほうがいい」
「ええ、それでお願いしますよ、加瀬さん…」
ハナシはとんとん拍子に進み、このあと、加瀬はその場からこの料金所のOBであるF氏と境の取り持ちを日程セットした。
あさって、某ターミナル駅内コーヒーショップでということで…。
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