その七

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その七

次の出勤日…、F氏と会って話した”中身”を、境ノブアキは加瀬にそのままで伝えた。 そして、その結果、自分の至った決断も…。 「うん…、それでがんばれ。アンタは言ってみりゃあ、ここにいるシニア連中とは踏んできた修羅の深度が違う。オレを含めて…。まあ、ココは健康な心身を持ってりゃあ、安定職を定年近くまで全うした老体連中には、楽園みたいなもんだ。社会インフラの一助を担う仕事でってアリバイ作りが持てて、この年になりゃ腐れ縁のカミさんにも煙たがれないで済む上、年金以外にそこそこの安定収入だ。それに比べ、おたくは言わば畳の上じゃ死ねない事情持ちなんだろ?」 「まあ、そんなとこです。お恥かしいが、ココの職場にはしがみついてでも働きたい…。だが、ぶっちゃけ、人恋しい…」 「…」 「…孤独で心がぺちゃんこになってるってのが、偽らざるところです。だから、今言った決意も自分的にはめちゃ、しんどい…」 「いや、アンタならできるさ。はは…、冷静に考えれば、どれほど寂しいからって、何もユーレイのオンナに欲情することねーだろ?何なら、フーゾクでピチピチ姉ちゃんの胸に飛び込んでくりゃあ、ぽかんと空いた穴も埋まるさ」 「ですね…。なら、そん時は加瀬さんに同行してもらってってことで…」 加瀬は何ともな苦笑いを漏らしていた。 *** これ以降、境は性根を入れて、R料金所の料金収受業務に全霊を傾けた…。 毎日のように、立直に着く下りレーンでも、”かの視線”からどんな誘惑を受けようが、ともかく毅然と拒絶することができたのだ。 実を言えば、境はあの日、別れ際にF氏から”色情霊対策”のコツについて更なるレクチャーを受けていた。 「…あの手の霊に対してはさ、何も難しく考えることはないんだ。やっこさんの色仕掛けに、アンタがムラムラしなきゃ、それで終わる。ぶっちゃけた話、人間の姿で挑発してきたとしても、アンタの股間が反応しないことだ。どんなべっぴんさんでも、所詮そいつは化けたキツネだと自分自身に言い聞かすんだ」 「そんなケースがおきますか?見た目人間で、僕の前に現れるとか…?」 「ああ。要は向こうの情念次第だから。だが、その現象は相手が共振して波動さえ合わなきゃ見えない。境さんの場合、すでにあっちからツケ込まれてるようだから、潜在意識で人間のソイツを呼び込む可能性はある。それでも、おなじだよ。相手に口説き落とされなきゃ、いいんだ。その繰り返しで、向こうが見込みなしってんで、諦めて退散するのを待つ。根比べだな、結局は」 「オレがつっぱねて、仮にあのオンナは”それ”をあきらめたとして、それで終わるんですか?可愛さ余って憎さ100倍ってなことになりませんか?」 「アンタにフラれたオンナの霊に恨まれて、そっちの念から呪われるとかを心配してるんだろうが、色情霊として憑りつくことができなかった”対象”には、その切り口を塞がれたことになるから、手は出せんはずだ。何しろ、境さん、アンタが今付け込まれてる切り口で突っぱね続ければ、ソイツはテメーで抱える情念を受け入れてくれる他の獲物を探すことにならざるを得ない宿命を背負ってるんだ。永遠に…。いずれにしろ、アンタの意志次第で解決出来るんだよ」 このF氏のレクチャーで、迷える羊たる境ノブアキは、闘う意気を注入された。 要するに、”あのオンナ”のラブコールを袖にすればいい…。 具体的には性的にコーフンしなけりゃいいんだと、そう自分に言い聞かせると、気持ちはぐっと楽になったと…。 *** それから約1か月…、境はすっかり業務にも下りレーンの”顔”にも慣れた。 「加瀬さん…、境さん、だいぶサマになってきたようですな。夜勤の立直も眠気を紛らわす要領を得てきたみたいだ。ハハハ…、私達のシフトも少し楽になりそうだし、良かった良かった…」 自衛隊出身の”指導教官”は、境の順調な独り立ちぶりにご機嫌であった。 実際、境ノブアキ当人も、”このままなら、この職場で何とかやっていけそうだ…”という、確かな手ごたえを感じていたのだから。 そして、かなり底冷えする小雨が降りしききるその日の日勤を終えた境は、車で約35分の家路についていたのだが…。 午前0時を少し超えたところで、急に睡魔に襲われる。 ”仕方ない…。どこか安全なとこに止めて、休息しよう。夜勤明けの帰路で事故ったら、それこそ元も子もないしな” 境の決断は早かった。 ”ああ眠い…、限界だわ、こりゃ…。直近のコンビニは間に合わない。どこかに止めなきゃ…” 急激な運転中の眠気という文字通り悪魔の仕業は、この夜、容赦なかった。 歩道のない2車線の県道を、ただでさえ視界の悪い小雨降る夜間ということで、時速40キロで目をこすりながら走行中の境は、とにかく路肩に車を止めるタイミングを見図っていたのだが…! 正に、一瞬…、ほんの一瞬、境は意識が飛んだ自覚を持った。 そして、当該一瞬の後…、彼の車はその意識なく、靄のかかった道路脇にファザードを焚いて停止していた。 ”ふう…、ほぼ無意識でクルマ止めてんじゃん、オレ…。ヤベーわ。わずか一瞬とはいえ、眠りに堕ちてるんだわ。気を付けね―と…” 運転席でハンドルをぎゅっと握った境の額からは、脂汗が一筋、滴っていた。 *** ここで彼は、次の考査に入った。 ”ええと…、ココ…、どこだ?たしか、ついさっき…、0時16分にはドライブインだった廃屋店舗が左端の視界に入ったから…、K工場前の交差点付近のはずだが…。ちょっとちがうだろ、このロケーション…” そう…、今彼の視界が捉えてる前方光景…、それは、周りに何もない単なる2車線道路であった。 まさしく、建物も信号も通行する車両もなんにも…。 彼の視界に存在するのは、道路わきの取ってつけたようなまるで造花かよってビジアルな街路樹…、文字・記号が濃い靄という怪しいぼかし作用でとんと標識版の警告目的が読み取れない漫画の中の交通標識類くらいであった訳で…。 それでも、フツーはまだあるはずだ…。 何らかかしらの、幹線道路を彩る建物、行きかう車以外でも! であれば…、この靄という白い目かくしで見えないだけだとか…。 それによって、日々走ってるなじみの道路ロケーションも、別のものに映ってしまってるのかと…。 そんな思いが境のアタマを駆け抜けると、その直後、前方左の靄がまくれるように半晴れし、そこには一台の車が止まっているではないか! ”やっぱ、靄で隠されてるんだわ。いろんな風景が…” とりあえずは安堵という範疇で、境はその車を我が視界に許容した。 彼はさかんに左右、そしてバックミラーを通して後ろを見渡した。 他にも靄の向こう側にあるべき、日常光景がどんどん現れるだろうと…、その希求を両眼に託していたのだが! 前方のクルマをお披露目した以外、靄はまくれなかった。 いや…、実際には白い幕は動かなかった…、のである。 そうこうしているうちに、前方の、極度に悪い視界にため、色合いすら定かではないクルマの助手席?から、ふわーっ湧き出る感じで、人影が車外に漏れ出た。 そして、ソレはゆっくりと真後ろ…、つまりは境の車に向かって”移動”してくるではないか! この期に及び、境はしかと確信した。 ”ヤツだ!しまった…!!…この寝てんだか起きてんだかのまだらな意識を突かれたのかー!” 彼の認識は、今こちらに”移動中”のソレこそ、”あのオンナ”ってことに定まっていたのだ! その前方に、視界を釘付けにされた境は、更なる認識を得る。 ”動かねーじゃん、オレの視界!それに、オレのカラダも‼” 彼は正確に悟ったのだ。 今時点、こんな状況下、いわゆる金縛り状態に陥ってると…。 ぎゅっとその両手で握り締めるハンドルさえ、律儀に金縛り中であることも‼ 今のこの男ができること…。 それは、近づくソレが自分の車にやってくるのを胸の内で拒むことだけであった。
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