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妹を人に近づけさせるために
「妹」のはじまりの「い」で唇がかすれて、舌がもつれながら「も」、勢いのまま、「う、と」と私は単語を放った。
そんなへたくそな「妹」という呼び方だったのに、未来、いや、妹は満足そうに頷いた。
「お父さんも、お母さんも、『未来』って呼ばないでね。わかった?」
「できるわけないだろ」
「そうよ、未来は未来なんだから」
名前は両親が初めて願う言霊なのかもしれない。
『未来』と呼び続ければ、いつか明るい未来が来る。父と母は、そう信じたいのかもしれない。
でも妹の未来を奪ったのは、私たちだ。いっときだけど奪ったのだ。妹が子供をつくる未来を。
妹が犬になったから。
一年前、十九歳で妹は突然、犬になった。
犬になる。思春期の子供に起こる病だ。
妹の瞳は、ゆがんだガラス玉のように妖しく光っていた。
会話はできるけれど、手づかみで食べ物をつかんでいた。すっかり姿勢が悪くなった。
あの日から、発情期がきた犬のように妹は異性を求めた。男が見つからないときは、自分の体を貫いてくれる代用品を探していた。
家を飛び出そうとする妹を引き留めたら、腕を噛まれた。
毎日の散歩で気がまぎれるはずだと医師に言われた。朝になると妹と長い距離を歩く日々。でも、妹の欲求は収まらなかった。
『あなたの大切な家族を人間にさせます』と宣伝する、しつけ教室に通わせたけれど、高額な代金がかかっただけだった。
どんなことをしても変わらなかった。
犬になった妹の姿に耐えられなくなった私たちは、妹を人に近づけさせるために、人としてできることを放棄させたのだ。
一か月の投薬でおとなしくなった妹を説得して、手術を行った。
永遠に子供は産めない。
妹は、そう信じている。
翌日、編集者の小野田と打ち合わせをした。
客がそれなりにいる喫茶店なのに、小野田は周りに聞こえるような声で、私に話しかけてくる。
「伊達先生、よかったですねぇ。妹さん、手術して。犬になったと聞いたとき、えらいびっくりしましたよ」
小野田の斜め後ろにいる、若い女性三人組がほぼ同時にこちらを見た。
私はわざと、三人をじっと見つめた。
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