36 待て

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36 待て

 考えながらも一成は告げる。 「弟が言ってたぞ。お前が事故現場にいたって」 「涼が?」  すると玲は狼狽えたように瞳を震わせた。  動揺を押し込めるように、一度唾を飲み込んだのが分かる。頬を僅かに痙攣させて問いかけた。 「涼は何て言ってました?」 「いや、事故現場にいたらしいって言ってただけだな」  一連において玲は無表情だった。一成が読み取ったのは二ヶ月もの間共に暮らしていたから分かる微かな表情の変化であり、他人からすれば真顔に見えるだろう。 「涼はその事故を、どう言ってました?」  しかし一成には、玲が怯えているように見えたのだ。 「子供すぎて覚えてない、って言ってたな」 「そっか……そうですか。幼かったしな。うん。ならいいんです」  一貫して無表情ではある。感情を無闇に表に出さない。  だが、玲の顔に安堵の気配が滲んだ。  兄としては弟の心の平穏が重要なのだろう。玲はより単調な口ぶりで語る。 「確かに俺はその事故を見ていました。どうしても忘れられなくて、苦しかった。でも……」  玲は一成を見つめて、仕方なさそうに眉を下げた。 「もう、どうしようもないことだったんだなと、今は思えてきました」  どうにもできないものだと受け入れて悲しさを抱えていくしかない。  玲にとって太刀打ちできない程の負の記憶は母親の事故だったのだろう。  幼い兄弟にとって最大の悲しみで、自分たちの運命が覆った瞬間だ。  そこには光などない。母親の事故死は、黒く蠢く靄に包まれた根源ない絶望そのもので、玲はその絶望が生まれる瞬間を鮮明に覚えている。  そして弟は絶望の発生を見ていない。  それが玲にとって、どれだけ救いになったか。  唯一の希望だ。 「もう終わったことなんですよね」  すると不思議なことが起きた。  玲は唇を閉じてグラスの水面を眺めている。  オレンジ色に染まった酒は何を反射するでもなく明るく有るだけだ。  それをじっと見下ろす玲の表情が、憑き物が落ちたように穏やかになっていく。出会った時からずっと強張っていた気配が今消えていく。  それは柔らかな印象を齎す一方で、玲が今この瞬間に、何かを諦めていくようにも見えた。 「明日は何をするんだ?」 「え?」  一成は思わず問いかけていた。  なぜだか一成の心には焦燥感が沸き起こった。玲の表情があまりにも静かすぎたから。  どうしてだろう。玲がより儚くなって、忽ち消えていくような気がしたのだ。 「明日、ですか?」 「そう」 「出勤して……、あと事務所に返済しに行こうかな」  その首元に残されていた締められたような跡は消えている。  玲は少し唇の端を尖らせて、考え込むような顔をした。 「あれだけの現金が手元にあるのは落ち着かないし」 「俺も行く」 「えっ、何でですか」  ギョッと目を見開いた。表情に抑揚が生まれるので、一成の心にも小さな安堵が滲む。 「また殴られるかもしれないだろ」  腹の怪我は暫く痛々しいまま残っていて、最近やっと薄まってきたところだ。  臓器は傷つけられていなかった。後遺症はない。  とは言え一人で事務所へ向かうのは危険だ。  玲は言う。 「もう平気ですよ」 「何で平気だって確信できるんだ」 「俺を殴った人、多分、いないので」  一ヶ月前は、由良晃が助けてくれたと言っていた。  彼が何かしたのだろうか。  黙り込む一成に玲は眉間に皺を寄せた。 「一成さん、どうしちゃったんですか?」  一成はまだその借金の理由を知らない。  借金について追求するということは、玲と由良の関係に掘り下げるということ。  訊ねるべきか迷う。しかし踏み込みすぎたらまた警戒されるかもしれない。  一成は言いかけた言葉を飲み込んで、「どうもしてない」と答えた。 「危険な場所なんだろ。一人で向かうのは危ねぇじゃねぇか」 「大丈夫ですよ……一成さんが訪れるような場所じゃないんです」 「明日か? やっぱり俺も行く」 「来ないでください。絶対にやめてください」  あまりにもはっきり言うものだから一成は顔を顰めた。  玲は動じずに告げる。 「一成さんが変な場所へ行って、それが話題になったら元も子もないじゃないですか。俺がここにいるのは余計な噂を避けるためなのに」  正論を突きつけられて一成は口を噤む。  玲は冷たくなったピザを掬い上げて、「大丈夫です」と言った。 「もう平気ですから」  玲は平気な顔をしてピザを食べた。もうそれはすっかり冷めて、チーズは固くなっているというのに。  その夜は結局、玲の主張が押し勝った。  ——翌日は、週に三回となった店への出勤日だ。  玲曰く、出勤日数をゼロにすると店を紹介してくれた『由良晃』が訝しむらしい。  普段の玲の発言からして、由良とは距離を置きたいようだった。だから由良に食いつかれるようなことはしたくないのだと。  由良晃。一成が掴めない一番の人物。  由良を調べるのは危険だ。彼は嵐海組の若頭補佐である。大江に頼もうにも彼は世間的に身を隠している立場なので、反社会的勢力には下手に近付けない。  やはり玲本人に聞くしかないのだろう。  翌朝、一成が目を覚ますと玲は部屋にいなかった。  もう昼過ぎになっている。店へ出勤したようだ。  事務所へも向かったのだろうか。本当に単独で行かせてよかったのか?  煙草を吸いながら一人悶々としていると、ベルが鳴った。  ——「月城さん」  来客だった。  それは玲とよく似た顔で、しかし玲とは違って黒目をもつ青年。 「兄ちゃん居ませんよね?」  弟の涼だった。  開口一番に兄の不在を確かめてくる。在宅かどうかではなく、居ないことを願っている口振りを妙に思う。  ひとまず招き入れてリビングに通す。ソファに腰を下ろした涼はやたら慎重に念押ししてきた。 「兄ちゃんどこですか?」  一成も真向かいの一人掛けソファに腰掛けながら返した。 「仕事と、返済をしに行くっつってたな」 「……月城さん、兄ちゃんに金渡したんですね?」 「あぁ」  涼は「そうですか」と深く頷く。  その俯いた角度のまま告げることには。 「また振り込まれてました」 「いくらだ?」 「二百八十万円……」  昨日、玲に渡したのは三百万円だ。  残りの五百万円は来週用意することになっている。玲が一気に八百万を手にすることを『なんか怖いので、分けてください』と発言したためである。  よく分からないが怖がっているなら仕方ないと言われた通りにしている。弟に預けた額からして、玲は返済に十数万を充てるらしい。  やけに少ないな。来週用意する額を全て返済に回すのか? いや、そうなると今日事務所へ向かう意味がない。  十数万しか返さないつもりなのだろうか……。 「俺が渡したのは三百万だ」 「じゃあ、いくら返しに行ったんですか?」 「さぁ」  答えながら一成は違和感を抱いている。  残りの一億という返済額は玲にとったら尋常でない規模だ。そんなに悠長にしていていいのか疑問に思う。  すると涼が、 「あの、月城さん。俺、この間から思ってたことがあるんです」  と深刻な顔をして切り出した。  それが今日ここへ訪れた本題だと言うように。  涼の喉仏が上下する。唾を飲み込んだのだ。涼は唇を開いたが、一度噛み締める。  そしてまた口を開いた。 「あの、確認なんですけど、月城さんって兄ちゃんのことどれくらい見てます?」 「……どれくらいっつっても、一緒に住んでるからそれなりだろ」  涼は疑い深い目をした。 「住んでると言ってもこの部屋広いじゃないですか」 「あー」 「メールで兄ちゃんの様子確認してくれてましたけど、あれ本当のことですよね?」 「本当だ」 「嘘ついてませんね」 「はぁ?」 「ちゃんと兄ちゃんのこと見て、報告してくれてた?」 「……」 「適当言ってない?」 「見てたわ」  しつこさをうざったく感じて、一成は乱暴に言う。 「すげぇ見てるから。出勤が無い日は玲もそのソファで座ってっから、朝起きたら俺は一番に玲と話してる。玲があのちっちぇ熱帯魚に『フィッシュ』『フィッシュA』って名付けて可愛いがってんのも眺めてるし、玲が好きなテレビ番組も把握してるし、玲が今読んでる漫画も分かる。圧倒的に筋力不足な玲にマシーンやらせてるくらいアイツに構ってるぞ。すっげぇキレられるけどな」  筋トレに使っているジムルームのマシーンに玲を座らせた時のことを思い出す。玲は『何でこんなことしなくちゃいけないんですか』と少しも器具を上下できないまま怒っていた。 「飯は大抵一緒に食べてるから好みも分かるぜ。つうか朝飯とか、玲が作ってるからな。俺、あいつの飯食ってから一日過ごしてんの」  得意げに鼻を鳴らしてみる。  涼は無言で、呆れるように顔を歪めた。 「悪いけど夜一緒に寝ることもあるからな。はは」 「……俺は、そんなことまで聞いてないんですけど」 「あっそ。お前が疑うから事実を言ってるだけ」 「月城さんが兄ちゃんのこと監視できるか知りたかっただけで……待って」  監視?  単語に疑念を抱くが、一成の疑念よりも強い疑問を抱いたような顔をした涼が、声を低くする。 「二人は偽物の恋人じゃないんですか?」 「まぁ、そうだな」  セックスはしてるし、共に暮らしている。が、契約は半年で仮初の関係である。  しかしセックスしてるし共に暮らしているのだ。  一成は『偽物の恋人』を認めることに無性に苛立って、「一応な」と付け足す。 「一応?」  涼は顔をさらに歪めた。 「一応って何です? 本当に恋人になったんですか?」 「なってはない」 「はい? 兄ちゃんは別に、月城さんのこと好きじゃないですよね?」  一成は答えなかった。答えるのが嫌だったから。認めるのが無性に腹が立つ。 「はい?」  涼は声を大きくして繰り返した。 「ちょっと待ってください」  そして涼は、その悍ましいものを見るような顔のまま言った。 「もしかして月城さん、本当に兄ちゃんに惚れてるんですか?」 「……」  一成は答えなかった。  数秒黙り込む。  ただ単に、指摘された言葉を自分の心へ落とし込むのに時間を要したから。  俺が……玲を好き? 「……」 「……」 「まぁいいや」  涼は冷めた目をして「それでですね」と話を続けようとする。  一成はすかさず止めた。 「おい待て」 「はい? 何ですか?」 「何ですかじゃねぇよ。お前が言ったんだろ」 「兄ちゃんに惚れてるんでしょう? 分かりましたよ」 「勝手に分かるな」 「違うんですか?」  一成は答えられない。しかしもう涼の言葉は理解している。  なぜなら心が拒否していない。その指摘に拒否反応を示さず、抵抗なく受け入れているのだ。  俺が、玲に惚れている。  惚れ……。 「話続けていいですか?」  涼は携帯の時刻を確認した。あまり時間がないように。  知るかそんなもの。 「よくない。おい、俺、お前の兄貴に惚れてんのか?」 「そうなんでしょう?」 「……そう、かもしれない」  指先が冷えていくのが分かる。  涼は嫌そうな顔をした。 「……無自覚とかやめてくださいよ? いい大人が見てられない」 「おい。待て。俺……どうすんだよ」 「何が?」  ど。  ……どうするんだ。  俺が、惚れている……。  確かに、近頃は、玲のふとした表情や一挙手一投足が気になって仕方なかった。  もうこれ以上傷付けたくなかったからセックスの頻度を減らし、衰弱してほしくなかったから金を与えて休ませた。  けれどしてきたことは変わらない。  初期の行いもあり、一成は自分を、玲が心を解く存在ではないと分かっている。分かっているが……。  こうして玲への恋情を自覚すると、話が違う。 「待てよ……」  二ヶ月前、一成は玲を無理やりこの家に連れて帰り、体の関係をもっている。  この事実は変わらないのだ  惚れた人間にすることでは、ない。
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