37 『俺は見たんだ』

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37 『俺は見たんだ』

「待つって何を?」  涼は玲とよく似た冷たい眼差しで一成を眺めた。  その瞳はグレーではなく黒。より冷酷な目に見える。 「月城さん、兄ちゃんへの恋心を今、自覚したみたいですね。まぁ惚れるのも無理はありません。綺麗な人だし」 「……」 「頑張ってください」  頑張るも何も、玲に好きになってもらえるわけがない。  頑張りようがないのだ。  もう経験したはずの後悔が色を変えてまた襲ってくる。それは重みを増している。  呆然とする一成に対し、涼が憐れむ顔をした。 「望み薄なんですね。月城さん、その態度で兄ちゃんに接してきたんですか?」 「……」 「あーあ……」  ぐうの音も出ない。涼は暗に『それじゃあ、無理だろうな』と言っている。  涼は息をつき、呟いた。 「月城さん。兄ちゃんのことが好きなら、あの人のことこれからもしっかり見ててくれますか?」 「……何が言いたい」  一成は青白い顔で、弟を見つめる。  彼は囁いた。 「『俺は見たんだ』」 「……は?」  涼の声がより低くなる。 「昔、言ってたんです」  その不穏な声音に一成は眉を顰めた。 「事故の後に、兄ちゃんが」 「事故っつうのは、母親のことだよな」 「はい。お母さんは交差点での車両衝突に巻き込まれたみたいなんです。兄ちゃんはその場にいて、一部始終を見ていました。他にも車が事故ってて、悲惨だったらしく……道路を渡る時は兄ちゃんって凄く慎重なんです。記憶が体に染み付いてるみたいに」  一成はその台詞の中に引っ掛かりを覚えた。なぜなら玲は、飛び出してきたのだから。  一成の車は青信号で直進していた。そこに玲が飛び込んできたことで自分たちは出会っている。  信号を見間違うほどに、あの時、玲は追い詰められていたということなのか。 「忘れるはずない。ずっと青にならない信号を覚えてる」  涼は独り言みたいに呟き、それから俯きがちになっていた視線を上げた。  黒い瞳が一成を見据える。 「兄ちゃんはその事故で、『俺は見たんだ』って言ってました」 「何を?」 「嵐海組長です」  涼は臆することなく言い切った。  らんかい、組……。  息を止める一成に弟は続ける。 「事故の後、かなり時間が経ってから兄ちゃんが言ってたんです。俺はまだ七歳くらいで、兄ちゃんの『俺は見たんだ。あのヤクザのせいで』『ランカイだ』の意味がよく分かりませんでした。兄ちゃんが由良さんと関わるようになったのは俺が十歳くらいの時でした。それまで忘れていたんですけど、やっとあの時の言葉を思い出してゾッとしたんです。その可能性を、考えてしまったから。……兄ちゃんが由良さんと接点を持ってるのは、事故に嵐海組が関わってるからなんじゃないか?」  「って」と、涼は声を震わせた。  俯きがちになり、視線を忙しなく彷徨わせる。 「あの事故に嵐海組長がいたんですよ」  顔を上げ、一成を見つめた。 「確かに事故のことはいくら検索しても詳細が出てこない。まるで権力者に痕跡が消されてるみたいに。もし組長が関わっているなら頷けます。だってヤクザが一般人に危害を及ぼしたら破門どころか絶縁だ。組長がお母さんを殺していて、その事実を揉み消していたなら、兄ちゃんのあの言葉の意味が通ります」  ——『俺は見たんだ。あのヤクザのせいで』  ランカイ組長のせいで母親が死んだ、という意味になる。 「あの言葉を思い出してからは、兄ちゃんが由良さんと関わっている意図を想像して困惑しました。だって、金を借りたって言っていたけど、どうしてわざわざあの人から?」  涼は唇を舐めて、呟いた。 「自分からわざと、近づいたんじゃないか?」  ——『ドライっつうか……怖い人ですよ』  先月涼はそう呟いていた。あの言葉をふと思い出す。  この可能性を考えていたのか。  涼は軽く息をつき、また語り始めた。 「俺は子供ながらに悩んで、怯えてました。けれど兄ちゃんは……前も言った通り、由良さんに大事にされてるみたいだったんです」  涼は以前言っていた。中学を卒業した玲は由良への借金を返すため由良の元で働いていたようだと。  そこで見た、まだ十代の玲と由良の関係は親密に見えたらしい。  だから涼はただ、混乱する他なかった。 「初めは、由良さんに近づいたのは兄ちゃんが嵐海組長に復讐するためだと思ったんです。だから俺を里子になるのに背を押して、俺との家族の痕跡を消し、自分は由良さんのところへ行った。でも何年経っても兄ちゃんが復讐する動きはなかった……それどころか由良さんは兄ちゃんを大事にしてるみたいだった。俺は思いました。もしかして、兄ちゃんも初めは復讐するつもりだったけれど、途中でやめたんじゃないか?」  由良はほぼ無利子で玲に金を貸している。何故かは分からない。由良は玲の魂胆を察したのか?  何にせよその金で弟はバース判定を受けることができて、祖母の医療費も用意できた。  玲は由良に感謝の気持ちを抱いたのかもしれない。  現在も返済を続けているようだが、未だに利子はほぼゼロだ。加えて事務所で襲われたところを、由良に助けられている。  しかし借金は残っている。 「でも、由良さんへの借金は残ってるんですよね?」  涼は慎重に問いかけてきた。 「そうらしい」 「だったら変です」  涼は断言した。  そして彼は息を吸い、吐いた。  話の根幹を告げるために。 「兄ちゃん、由良さんに金を返す気ないんですよ」  もうすでに一成には、涼の言いたいことが伝わっていた。  ——つまり。  まだ、終わっていない。 「月城さんと兄ちゃんがどうやって出会ったのか知らないけど、月城さんのおかげでお金を作ることができた。それを俺と婆ちゃんの今後のために俺に託して、自分は復讐を再開しようとしてる。どうせ復讐するんなら由良さんに金なんか返しませんよね。兄ちゃん、由良さんや組長に何かするつもりなんじゃないですか?」  涼の語る口調に勢いが増していく。より強く、より急ぐように。 「俺は由良さんに会ったことがないんです。ヤクザだから当たり前だけど、それにしても何年もの間兄ちゃんは由良さんと親密なのに一度も会ったことがない。兄ちゃんが慎重に会わせないようにしているみたい」  一成も由良とは会ったことがない。由良に会わせないためなのかは分からないが、少なくとも事務所へ向かうのを禁じられている。 「とにかく、嫌な予感がするんです……」 「お前が先月言っていたのはこれか」  一ヶ月前、まだ玲に借金が残っていると告げると涼はかなり動揺していた。  ——『とにかく今の兄ちゃんは何か変なんです……』  ——『兄ちゃんのこと見ててください』  薄々玲の様子がおかしいと勘付いていた涼は、一成から玲に借金が残っていると聞いてより疑いを増したらしい。  一ヶ月が経ち、またしても涼の口座に金が振り込まれた。  着々と準備を進めているかのようでもある。 「月城さんは兄ちゃんを裏切りませんよね?」  ふと弟が、真剣な眼差しでこちらを見つめてくる。 「兄ちゃんが誰を恨んでるか知っても、味方になってくれますよね」  一成はその真っ黒な瞳を見つめ返した。 「兄ちゃんには危ないことはしてほしくない。兄ちゃんが嵐海組長に復讐する前に、止めてください。でももし何かするんだとしたら……何かする可能性がある兄ちゃんを、傍に置くのは不安だとしても——……」 「俺がなんとかする」  遮るように言うと、涼はどこか縋るような目で一成を見つめた。 「玲が行動を起こす前に。行動を起こしたとしても俺があいつの身を守る」  その顔に年相応の幼さが滲んでいる。  涼はまだ高校一年生だ。いくら兄が心配だとしてもこれ程の不安を背負わせるわけにはいかない。  一成はもう一度断言した。 「お前たちは大丈夫だ」 「……そうですよね」  すると涼は泣き笑いみたいな弱々しい笑みを浮かべた。 「月城さんは、兄ちゃんのことが好きなんですもんね」 「あぁ」  即答すると、弟は笑みを深めた。  束の間の安堵が彼の胸に広がったのが分かる。一成も少しでも彼の緊張を解きたくなり、軽く笑いかけてやる。玲の弟だからか、この少年が怯えている姿は見たくない。  一成との契約期間は残り四ヶ月だ。  涼の推測が正しかったとしても、少なくともあと四ヶ月は大人しくしているはず。  けれどどうなのだろう。  ——『もう、どうしようもないことだったんだなと、今は思えてきました』  昨晩の玲の声が耳に蘇る。脳裏を過ぎるのは、玲のどこか諦めたような、寂しげな表情。  ……嵐海組を憎んでいたとしてももう、その憎しみを復讐の刀にする気はないかもしれない。  あの時、諦めたのだろうか。  玲。    今でも尚、恨んでいる?
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