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38 途方に暮れる
【第三章】
――『一生恨みや憎悪を受け入れるしか、ないんでしょうか』
――『もう、どうしようもないことだったんだなと、今は思えてきました』
自分で口にした言葉に、心が雁字がらめにされている。
どうしようか。これから。
玲は途方に暮れていた。
昨晩の一成との会話を幾度も反芻しながら一日を過ごした。
一成の元で暮らし始めて、二ヶ月以上が経っている。渡された三百万は殆どを涼の口座に振り込んで、返済用に十万を残している。
店での仕事を終えた玲は、金融事務所へ向かわなければならない。
だがどういうわけかやたらと足が重い。
梅雨が到来したのか、もう迫っているのか。空は灰色の重い雲に覆われていて、少し捻ったら雨が一気に落ちてきそうだった。
同じ色に濁った頭の中を巡るのは昨晩の一成の言葉たちだ。
一成は言っていた。嵐海組に関して何も知らないと。
そして自分の生涯の一部について話をしてくれた。
玲はいつの間にか、一成の心を解き、彼の本心を打ち明けられる存在になっているらしい。
知ったのは、一成が父親に苦しんでいたこと。やがて父親の呪縛を断ち切り、日本を出た。父親は、一成の母親や他の家族を苦しめた悪の根源そのもののような男であった。
一成は彼を心底軽蔑し、もうこの世にいない今も恨んでいる。
――玲と同じだった。
どうにもならないことを憎しみ続けているのだ。
圧倒的な力をもつ『魔王』への無力な恨みの炎が途絶えない。恐怖と後悔と怨念は際限なく生まれて、炎のエネルギーとなっている。
その熱を糧に今日この日まで生きてきたのだ。
怒りの炎で狼煙を上げて、やってきたというのに。
それなのにどうしよう。
――『俺にとってアイツは父親なんかじゃない。最も卑劣な他人だ』
一成の言葉が炎に触れる。
――『アイツのせいで傷つけられた人間が大勢いる』
言葉は氷の刃みたいだった。残酷なほど冷たいけれど、この滾る炎に触れると水になって、否応なしに鎮火させられてしまう。
一成は自分の怒りを自分の表現で昇華していた。それは玲には考えもつかない手法だった。
玲は違う。
玲と一成はまるで違う。
けれど根本的な部分では一緒だった。
魔王を恐れて、憎しむ、同じ国の民だったのだ。
この二ヶ月間、一成を間近で見てきた。性行為だけが彼との生活ではない。なかなか心を見せないと思っていたあの男も、次第に玲へ関心を向けるようになった。
今では共に食事をして、同じソファに座りながらテレビを眺めている。セックスをせずに一つのベッドで眠ることもある。
横暴なのは変わらないけれど、一成の無茶な行動にすっかり慣れてしまった。一成が好きなもの……本やゲーム、お酒。多くを知るようになっている。
あの人はただの人間だった。
これからどうしたらいいのだろう。
あんまりにも考え続けていたからか、金融事務所の最寄駅に降りた時点で体力が尽きてしまう。駅前のベンチに腰掛けジッとする。
駅前は全体が灰皿みたいになっていて、そこかしこで男たちが煙草を吸っている。体に絡みつくような苦い香りが、この町の匂いだ。
一成の煙草は平気なのに、此処は駄目だ。気持ちが悪い。今の玲には刺激が強すぎて吐き気が増してくる。
これから由良の事務所へ向かうのだと考えると、より気分が悪くなった。
もう林はいないはず。だが、彼から受けた恐怖は消えない。時間が経てば経つごとに、一ヶ月前の出来事が玲の心に齎す影は、色を濃くしていく。
仕方なく暴行を受けるけれど、玲はちっとも大丈夫ではない。終わってしまったことをずっと考えて、恐怖するのだ。
玲はふぅと息を吐いた。体が熱いような気もした。昨晩から体が怠くて、唇が火照っている。
これは熱が上がる兆候だ。気が緩んだせいで、心が解けて、風邪でも引いてしまったのだろうか。
ぼんやり考えながら自分の靴を眺めている。
と、そこでようやっと気付く。
「……ヒート?」
玲は独り言ちた。微かな呟きは煙草の異臭に溶けていく。
ハッと我にかえり、携帯のカレンダーを確認する。
最後のヒートは二ヶ月以上前。次のヒートはあと一ヶ月後のはず。
そうは言ってもストレスや環境で左右されるもの。アルファ性の一成と過ごしたことで周期が乱れた可能性もある。
オメガ性の体はアルファ性に影響される。玲の初めてのヒートも、アルファ性の由良によって引き起こされている。
ヒートなら最悪だ。
いつもは常備している薬も、今日は朝からぼんやりしていて持っていない。
焦るな。落ち着こう。玲はすぐさま立ち上がり、駅構内へ向かった。
トイレの個室に移動して息を整える。意識すると熱が加速する。あぁこの異常な発熱はよく覚えがある。
ヒートに間違いない。
玲は息切れを抑えて、携帯を握りしめた。
ここじゃダメだ。オメガのフェロモンは、ベータには感知されないがアルファには分かる。
人気のないトイレだとしても危険すぎる。玲は個室を出て、多目的トイレへ移動した。
自分のチョーカーを握りながらマップを検索する。薬……緊急抑制剤を売っている薬局はここから歩いて十分かかる。
その間に何が起きるか分からない。歩けなくなったらおしまいだ。この町は治安が悪く、ただでさえ気を付けていなければならないのに。
何で薬を持っていないんだ。馬鹿野郎。自分の愚かさに泣きたくなった。後悔と不安ばかりが募っていく。
どうしよう。玲はその場で蹲った。
助けを呼ばないと……息が熱い。心臓が痛い。皮膚がヒリヒリして、痛い。
その時、心の中で呟いていた。
……一成さん……。
指が勝手に画面をタップする。
荒い呼吸もそのままに発信ボタンを押した。
『――玲?』
「い、っせいさん……」
一成の声を聞いて、涙が滲んだ。
自分でもよく分からない。その低い声に、怯えて震えていた心がドッと安堵したのだ。
体は熱い。息も燃えるよう。玲の声すら、熱を孕んでいるように聞こえた。
『どうした?』
それでも、迷い子のように途方に暮れていた心の緊張が解けていく。
「なんか、ヒートが。ヒートなんです、多分」
『今どこにいるんだ?』
状況は変わらないのに一成の声を聞いて心が緩んでしまった。玲はまるで幼い子供に戻ったような、舌足らずな口調で答える。
「駅です。あの、南駅の多目的トイレにいるんです」
『鍵はかけてるか?』
「鍵……はい。鍵、かけてます。熱くて動けません。どうしよう」
『すぐに行くからそこから出るな』
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