39 ヒート

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39 ヒート

 玲は携帯を強く握りしめる。扉から出来る限り離れて、しゃがみ込む。  一成は通話を切らなかった。時折『玲、水持ってるか?』『寝ててもいいぞ』『駅には連絡しといたから、誰も入って来ない。安心しろ』と声がかかる。  みるみる熱に侵されていく。思考能力も奪われて、呼吸することしかできない。返事の代わりに息切れをした。答えられないけれど、電話は切らなかった。  やがて、扉が開いた。 「玲」  電話越しに聞こえていた低い声が直接降ってくる。  壁にぐったりと寄りかかっていた玲は薄目を開いた。  一成がいた。 「よく頑張ったな。帰るぞ」  その匂いに包まれてから今更、この男がアルファ性だということを思い出した。  玲のフェロモンはアルファ性に強く影響する。フェロモンの充満した部屋に入ってくるのは、一成にとって辛いはず。  だが一成は、その逞しい腕で難なく玲を抱えた。 「お前の部屋から抑制剤持ってきたから。打つか、飲むか。どっちがいい」  トイレで蹲っていたから不潔に感じるだろう身体を、一成は膝の上に抱えた。  玲は泣き声みたいに「一成さん」と呟いた。 「打つのは嫌か? とりあえず飲め」 「う……っ、怖い」  荒い呼吸の中で呟く。一成が口の中に錠剤を押し込んでくる。  水を流し込まれて錠剤を飲み込む。玲は無我夢中で一成に抱きついた。一成は、薬を飲み込んだのを確認すると玲の体を軽々と持ち上げる。  両腕で横抱きにされて、身体を覆うようにブランケットをかけられる。一成の自宅にあるものだ。  彼の香りが滲んでる。  強く瞼を瞑っていた。奥歯を噛み締めて腹の奥の疼きを堪える。  一成はすぐに移動し、やがて後部座席に横たえられた。窓を開いてから車を走らせる。  フェロモンに耐えられるほどのアルファ性用抑制剤は強烈な副作用が後に起こる。ヒートの玲が近くにいるのに運転ができるということは、一成はそれを打ったのだ。  自分の呼吸が煩くて聴覚が鈍る。嗅覚すら遠くなって、あまりの熱に五感が麻痺したように思える。  玲は瞼を閉じて、曖昧になった頭の中で考える。  一成は大丈夫なのだろうか。 「寝てろ」  曖昧になった世界から一成の声が耳に届く。  それから玲は、まるで魔法にかかったように意識を失っていった。  ヒートは嫌いだ。  怖いから。  ヒートの最中は理性を失って記憶が混濁する。体のコントロールを失って、アルファを求める欲求に突き動かされる。  勝手に湿るアナルと、腹の奥を求めて内壁を弄る自分の指。何度も硬くなる気持ち悪いペニス。  もうやめたいと思っても身体は求め続けている。  自分という意識は深い沼に沈み、いくらもがいても地上に上がることができない。どろっとした汚いヘドロが己にへばりついているみたいだ。  とにかく怖くて仕方がない。無防備な身体を傷つけられたら、とか、うなじを噛まれたら、とか……。  制御の効かなくなった状況で他者に触れるのが怖かった。  だから、何度も何度も譫言のように、 「こわい」  と呟いていたのだと思う。  うなじを噛まれるのが怖い。挿れられて、妊娠したらどうしよう。番も運命も大嫌いだ。理性を失った玲は恐怖ばかりを口にしていた。  その五日間、アルファ性の一成は献身的に世話をしてくれた。  平常時にはあれだけセックスしていたのに、ヒート期間の玲には触れないでくれたのだ。  最初の二日間は殆ど記憶がない。だが残りの三日間は鮮明に覚えていて、最後の一日は殆ど熱程度だった。  フェロモンも薄くなった最後の一日。  意識もはっきりした玲はベッドの中で一成の話を聞いていた。 「ゴスケが新しく作ったゲームが物凄いバズってんだよ。ネタにされてんなこりゃ。ネタにされんのが強いよな」 「……」 「何でもいいから広まるのがいいもんな。そもそも面白いしな、これ」 「……一成さんって」 「何だよ」 「小説書くよりゲームする方が好きなんですか」 「そりゃそうだろ」  一成は喋り続けている。  出会った時からそうだった。 「お前な、小説なめてんだろ。苦行だぞ」 「……じゃあ何で書くんですか」 「面白いから」 「?」 「ゲームは別に苦行じゃねぇじゃん。やめたきゃやめりゃあ、いい。だが小説は仕事だから。仕方なく書いてる節はあっけど」 「……」 「これが何か面白いんだよな。小説って面白い」 「……」  眠くなったら寝る。玲は瞼を閉じた。  また目を覚ますと、部屋には一人だった。ぼうっとしていると暫くしてから一成が現れて、 「玲、テメェ俺が話してる最中に寝るな」  と苦言を呈し、またしても喋り始める。 「時間の区切りがあると集中できるよな」 「集中……」 「お前が寝てる間に仕事進めてたんだけどさ、やっぱり玲は発熱してんだから汗かくだろ」 「はい」 「だから定期的に汗拭いてやったり、水飲ませてやったり、飯食わせたりしてやったわけじゃん」 「……」 「着替えもさせてやった」 「……」 「お前今、恩着せがましいなって思っただろ」 「思ってません」 「俺に感謝しろよ」 「してます」 「一時間仕事してお前見にきて、また一時間執筆してお前見にくる。そうなるとこの一時間。時間制限かかってるからか、妙に集中する」 「仕事、進捗……大変なんですか?」 「これが割と進んだんだよ」  玲はゆっくり瞬きした。一成は喋り続けている。 「時間の区切りがあるからかもな。RTAみたいなノリ」 「あーるてぃーえー……」 「恋人のヒート期間だけで書いた小説、を出してやろうかな」 「書き切れたんですか?」 「書き切れなかったんだよ」  一成は喋り続けた。出会ったばかりの春のように。  けれど春と違うのは、それに玲が自然に言葉を返せることだ。 「全然無理だな。やっぱり小説って、甘くねぇわ」 「お腹空いた」 「チッ。この自由人が。玲、お前やっぱ話聞いてねぇだろ」 「聞いてます。一成さんが仕事終わらなかったって」 「その通りだ」  あまりにも一成の話がくだらないから、何を怖がっていたか分からなくなる。  ヒートは宇宙に放り出されたように心許なくて、終わってからもまだ恐怖が疼いている。体が怠くて仕方なくて、何もする気が起きなくなる。  けれど一成がいると玲は普通になってしまう。  彼の話を聞いていると心も身体もほぐれる。  突発的なヒートで理性を失った姿を見せてしまった。それに一成を巻き込んでしまった。五日間も迷惑をかけてしまった。  罪悪感と羞恥を抱くべきなのに、でも、一成があまりにも一成だから。  だから玲も普通の玲になってしまう。
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