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1 今日は運命の日
【序章 今日は運命の日】
運命は、流されて行き着いた先にあるものなのか、それとも無我夢中で泳いで辿り着いた岸辺に広がる何かなのか。
受動的か能動的かで、その行く末はどう変わるのだろう。何も変わらないと言われればそうであるように思えるし、そもそも運命なんか都合の良い言い訳の一種、思考停止であると言われても頷ける。
大倉玲(おおくられい)はとある映画の広告動画を眺めながら『運命』について少しの間考えた。
たった一分にも満たない。踏切が開くのを待つ間だけ。
耳には目の前で走行する電車の轟音が流れてくる。玲は携帯を眺めている。ある映画の記者会見だ。
出演俳優たちは今を輝く若手から大物俳優まで粒揃いで、広告動画だと言うのに三百万再生を回っている。それだけ話題になっている理由は、豪華な出演陣の影響だけでない。
原作小説を執筆した人物、月城一成(つきしろいっせい)の存在が関わっている。
動画には月城一成のムービーが組み込まれていた。彼は無愛想に《良い映画になるといいですね。》と告げる。
そのいい加減な口振りも好評で、コメント欄は彼の話題で大盛り上がりだ。月城一成が執筆した作品はどれも人気だった。硬すぎない文体と印象的な表現法、ミステリー調のストーリーが老若男女から愛されている。
彼が世間から異常なまでの注目と人気を集めているのは、彼が描く小説の面白さに加えて、そのルックスも関係している。
俳優陣と並んでも遜色ないほどのスタイルと、整った顔立ち。形の良い二重瞼の奥には、青色の宝石のような瞳が埋まっている。
スッと通った鼻筋も彫刻品の如く綺麗で、動画でどれだけアップにされても白い肌には毛穴一つない。左目の目尻下にあるホクロに長いまつ毛の影が落ちると、色気を増して綺麗だった。
一度彼が雑誌に現れればその号は飛ぶように売れるし、SNSで彼の写真が上げられると一気に拡散される。
月城一成は桁外れに美しい外見をしていた。その一方で動画で現れる彼は常に気怠けな雰囲気を醸している。
そのギャップが人々を惹きつけるのだろう。乱暴な口振りも鋭い目つきも、たまに見せるニヒルな笑みも、世間を虜にし続けている。
彼には圧倒的な魅力がある。それらのせいでこうも言われていた。
――月城一成はアルファ性に違いない。
動画の中で月城一成が言った。
《みなさん、お楽しみに。》
玲は携帯を上着のポケットに突っ込む。
映画の予告動画を見たところで、実際に映画館へ行くことはない。
それは《運命》をテーマにした第二性の映画だった。
人間は男女性以外に第二性……ベータ、アルファ、オメガで区別できる。
大半は特性のないベータ性だ。人口の殆どがベータ性に属する。希少なアルファ性は身体的にも知能的にも優れた人間が多く、特権階級の富裕層に多いと言われている。
オメガ性はそれよりも稀だった。ヒートという発情期を有していて、女性だけでなく男性も妊娠できる体質をもっている。
オメガ性のヒートに影響されるのはアルファ性だけだ。両者はその特質から、番と呼ばれる身体的な繋がりを結ぶことができる。番をもつオメガ性の特徴は分かりやすく、うなじに噛み跡がある。番はアルファ性がオメガ性のうなじを噛んで成立するからだ。
オメガ性にとって番は一人だけだが、アルファ性は他の者を噛むこともできるので複数の番をもつ者もいる。噛んでしまえば良いだけなのだ。非常にアルファ性優位の特質だった。
殆ど都市伝説的に語られているのが運命の番だ。
アルファとオメガには運命の番がいて、二人は一度出会ってしまえば互いの魂で惹きつけられる……。
これは作り話ではない。かなり希少だが実際に報告されている。オメガ性の玲にも、運命の番、とやらはいるのだろうか。
もしもいるなら絶対に出会いたくない。
運命の番など要らない。
それに、玲には運命の番に割く時間はないのだ。
やらなければならないことがたくさんある。
運命さんからしても、借金塗れの玲が相手だなんて運命を呪いたくなるほどの不幸に違いない。
いつの間にか電車が通り過ぎていて、顔を上げると同時遮断機も上がっていく。黄色い棒が、不気味なまでに真っ青の空を突き刺していた。
晴れ渡った空の眩しさに目眩がする。昨晩から働きづめでろくに睡眠も取れていないのだ。
しばらく歩いて交差点近くで立ち止まる。時間を確認しつつ、その場で数分じっとしていた。
それほど交通量は多くない。この道を真っ直ぐ行くと高級住宅街に繋がっているからか、度々高級車が目に入る。
玲はまた時間を確認して、あたりを見渡す。
信号が変わった。
白い車が走ってくるのを視界の隅で捉える。
玲は覚束ない足取りで歩き出す。
――その瞬間、空をつんざくようにクラクションが鳴り響いた。
……後から考えると、それは玲の運命が動くゴングだったのだろう。
気付けば玲は道路に座り込んでいた。
尻餅をついた玲はハッとして顔を上げた。横断歩道の信号は赤になっている。玲を轢く間際で急停車した車から男が降りてきた。
心臓は飛び出そうなほど鼓動を立てていて、玲は動けなかった。
男はこちらに近づいてくると、言う。
「死ぬつもりか?」
ゾッとするほど低い声だった。
背中に埋まる骨を撫でるような冷たく、鋭い声だ。
「俺にお前を殺させる気か? 自殺なら別んとこでやってくれ」
「……あ、す、すみませ……」
すぐそこには車のヘッドライトがある。
一秒経過するごとに否応なしに恐怖がのしかかってきた。勝手に体が震えてきて、奥歯がカタカタ音を立てた。
目の前に男が迫ってくる。
全身黒ずくめで、やたらとスタイルの良い男性だ。グレーのマスクにツバの深いキャップを被っていて顔は良く見えないが、声は若かった。
動揺で視線の焦点が合わない玲に、男が言う。
「おい。座り込んでたら迷惑だろ。立てよ」
「ご、ごめんなさ……腰が、腰が抜けたみたいで」
「はぁ? チッ」
盛大な舌打ちが響くと同時、運転席から別の中年の男が出てきた。
「坊っちゃん! 開口一番に喧嘩を売らないでください!」
「こいつ腰抜けたんだってよ」
「それはそうでしょう。お怪我は? 大変なことになりましたね……」
「面倒だ。おいお前、車に乗れ」
するとその男は、玲の返事を聞く前に腕を掴んでくる。
えっと思うも束の間、玲は強引に引き上げられていた。
背の高い男だった。玲は百七十センチを超えているが、それでも見上げてしまうほど。
マスクとキャップに囲われた目が見えた。
その瞳の色は、青く、見覚えがある。
左目の下にほくろがあった。
「お前……」
呟いたのは男の方だ。
彼は何かに気付いたように目を見開くと、次の瞬間には細めている。
マスクのせいで表情はよく見えないが笑っているようだった。なんだ? 玲の胸に焦燥が滲む。
だが男は何も言わずに腕を握り直し、玲を連れて歩き出す。
「あ、の、ちょっと……っ」
「なんだよ。歩けんじゃねぇか」
中年の男が狼狽えつつも運転席へ戻っていく。玲の腕を強く握りしめた男は、迷いなく後部座席に回り、扉を開くと、玲を投げるように後部座席へ転がした。
「うあっ」
「出せ」
男はキャップを外しながら短く言った。返事もなく車が発進する。
玲は何が何だか分からぬまま座席に座り直し、隣の彼に目を向ける。
その顔を見て息を止めた。
吐くと同時、思わず呟いている。
「……月城、一成……?」
「俺のこと知ってんのかよ」
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