声を聴かせて、あの日の事を

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声を聴かせて、あの日の事を

叔母が言うのは、こういう事だった。 事情があって、帰国した若いバイオリニストは、暫くの間、日本にいると言う。 海外にいる時は、フリーで活躍していた。父親の生まれた日本で、活動をしてみたいが、しがらみの多い、事務所には、登録したくない。たまたま、澪の父親の会社の大きな顧客でもあり、澪達が、音楽事務所を構えるのなら、暫くの間、席を置きたいとの申し出があった。 「もちろん、いいでしょう?」 叔母の鼻息は、荒かった。 澪の父親の会社は、幾つもの、日本の工芸品を海外に輸出しており、陶器や家具と、かなり、購入してもらっている。 そのバイオリニストの母親も、ドイツで小さな会社を経営しており、日本の工芸品を 手がけていた。 「叔母様が、そう言うなら」 バイオリンと聞いて、澪の胸は、少し、痛んだ。 「本当?契約してもいいの?」 「えぇ・・」 ここで、バイオリン奏者を選ぶのも、どこかで、海の面影を探していた。 すっかり、海との関係は、遠くなっていた。 あの日から、逢って声を聞く事はなかった。 互いを気にしながら、逢ってしまえば、何もかも、消えてしまいそうな気がしていた。 かといって、逢わずにいても、あの日の事は、忘れられない。 逢えば、話したい事は、たくさんある。 でも、海は、手の届かない場所に行ってしまった。 いつも、どこかで、海の話題があり、多くの人の目に晒されていた。 自分が、そばに行く事は、できない。 「聞いている?」 叔母の激しい口調で、澪は、我に返った。 「あ・・・ごめんなさい」 「その子がね。知り合いを頼って、ライブに出るそうなの。顔を見に行きたと思わない?」 バイオリンには、興味がある。 「挨拶に行きましょう」 「そうね」 叔母が、そう言うなら、聞きに行ってもいい。 気分転換になる。 バイオリンを聞きながら、どこか、海の姿を探してしまいそう・・・だが。 「本当に。きっと、将来の大株よ。きっと、伸びると思うのよ」 叔母は、上機嫌だ。 「きっと、将来、物凄い、イケメンになるわよ。見れないのが、残念ね」 そう言われて澪は、少し、笑った。 「あら・・・。ごめんなさいね。口が滑っちゃった」 「いえ・・」 叔母の天真爛漫さは、無意識に人を傷つける。
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