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その昔、お花見は、新参者にとっての最初の仕事だった。
例えば、会社。新入社員は花見のための場所取りをさせられるのが普通のことだった。わたしが若い頃なんて、数日前から場所取りをさせられていたものだ。
しかし、普通は変わった。
「いえ~い!」
「かんぱ~い!」
桜の木の下で、いくつかのグループで宴会が始まる声がした。そこにいるのは似たような年代の者たちばかりだった。異なる年代が入り混じっている様子はない。恐縮し、かちんこちんに固まっている新入社員の姿など、一切なかった。
わたしが若かった頃は、新入社員が忙しなく、ビール片手に、誰に手酌をしたらいいかわからず、右往左往している姿を見る方が多かった。むしろ、それが普通の光景だった。
新入社員をはじめとした若者は一発芸をやらされたり、上司に呼ばれ、下ネタを連発されたりと、自分たちが楽しめる要素なんて皆無だった。
それは普通のことだ。年長者たちが楽しむための会なのだから。
それもいつの頃からか、その数を減らし、もはや見かける方が珍しくなっていた。
わたしはベンチに腰掛け、桜を見上げながら、嘆息を吐いた。
「あの頃が、懐かしいな……」
一発芸をやらされたり、ビールを注ぎに奔走したのが懐かしいわけではない。自分の元にビールを注ぎに来てもらのが普通の立場になってからが懐かしかった。とにかく気分が良かった。
けれど、その普通はいつの間にか終わっていた。後輩をつれて呑みに行く機会も、気が付けばほとんどなくなっていた。
「今日は盛り上がって行こうッ!」
桜色の髪を二つ結びにした、アイドルみたいな女の子がジュースを片手に乾杯の音頭を取っていた。
「かんぱ~いッ!」
「かんぱ~~~いッ!」
十人ほどのグループがそれに合わせて、コップを頭上に持ち上げる。入っている飲み物も色とりどりだ。だが、ビールの姿はなかった。
ふと、桜色の髪の女の子と視線がバチンッとぶつかった。わたしは逃げるように、視線をそらした。
「となり、ちょっと失礼!」
「え?」
気が付けば、となりに桜色の髪の女の子が座っていた。最も、となりといっても、一人分の空白はあるが。
「おじさん、辛気臭い顔してるね~。どったの?」
わたしは、そっとベンチから腰を浮かす。絡まれたらたまらない。
しかし、桜色の髪の女の子はわたしの服の袖をさっとつかんだ。
「かわいい女の子から話しかけられて、無視は良くないぞ~」
……完全に絡まれた。
「さ、座って座って」
桜色の髪の女の子は人懐っこい笑みを浮かべていた。腕を振り払う程のことでもないため、わたしはベンチに座り直した。
「それで、どったのよ?」
「別に、君たちが楽しそうだなと思っただけだ」
「楽しそうに見えた? それなら良かった! こういう会を開いた会があるってもんだよ!」
刹那、桜色の髪の女の子の瞳が、すっと細められた。心の中を見透かそうとしているかのようだった。
「それで、おじさんはどうしてそんな辛気臭い顔をしてるの? 幸せが逃げちゃうぞ!」
桜色の髪の女の子はわたしの正面で仁王立ちした。口の端を、自分の指で持ち上げて、笑顔を作っていた。先ほど見せた心を見透かすような素振りは消えていた。
「笑顔! 笑顔! 笑顔は人を幸せにするんだよ!」
「……わたしは、笑えない」
「仕事でもクビにされた?」
半分正解だった。わたしは今しがた、会社から自宅謹慎を命じられていた。
「あら、その様子だと、当たらずも遠からずって感じだね。どうしてそんなことになったの?」
特に変わらぬ、軽いテンションで聞いてきた。それに軽い苛立ちを覚えた。けれど、だからこそしゃべれたのかもしれない。
「パワハラだ」
「パワハラっすか」
少し前だったら普通に許されていただろうことも、今の時代では許されなくなっていた。
部下への叱責が度を越していたと、上司から言われた。わたしは、ただ部下の成長を願っていただけだ。普通のことだ。いや、むしろ、わたしは気を使った方だ。わたしが若い頃だったら、多分、普通に殴られていただろう。
「時代は変わってしまった。わたしの叱責は、今までだったら、普通に何も言われなかった。いや、むしろ普通に賞賛すらされていた。わたしのおかげで成長できた、と何人もから声を掛けられたし、会社もそんなわたしを認めてくれていた。それなのに……!」
「それなのに、こんなわたしを、こんな目に合わせた! とでも言いたげだねぇ」
桜色の髪の女の子は、ケタケタと笑いながら、足をバタバタさせた。
わたしは苛立った。
「そうだ! わたしは部下の成長を願い、部下を思って、叱責したんだ! それなのに、その部下ではなく、上司はわたしを問題視した! おかしいだろ!」
昔だったら、普通のことだった。それなのに、それなのに!
わたしの苛立ちは頂点に達しようとしていた。こんな小娘相手に怒りを爆発さえるなんて、大人げないのはわかっている。だが、自分の感情をコントロールできなくなっていた。
わたしは吠えた。
「部下を思っての叱責……そんなこと、普通だろう!」
「ねえ、おじさん」
刹那、わたしは桜色の髪の女の子に視線を向けていた。その声色があまりにも低く、ノイズが混じったように、濁っていたからだ。
先ほどと同一人物が発した言葉とは、到底思えなかった。
そして、その双眸もまた、同一人物には見えなかった。
桜色の髪の女の子の瞳は、墨汁で浸したように真っ黒になった。光の一切ない、黒の塊。
わたしは身の危険を覚え、反射的に身を引いていた。
「……普通って何?」
桜色の髪の女の子は笑っていた。口元だけが、三日月みたいに歪んでいた。
その表情に背筋が凍る。何か大きな間違いを犯したのかと、心が乱れる。
わたしは心の中で深呼吸を繰り返す。少し落ち着いたところで、わたしは桜色の髪の女の子の質問への答えを口にしようとする。
……しかし、言葉が出てこなかった。答えに窮した。
普通って、なんだ?
「みんな、それが普通とか、それが当たり前だとか言うけど、何が普通で何が当たり前なの? わたしにはそれがわからない。ねえ、おじさん、教えてよ、普通って何?」
桜色の髪の女の子の瞳に吸い込まれる。真っ黒な瞳が、わたしを飲み込んでいく。
わたしは、普通がわからなくなっていた。いや、そもそもわかっていなかったのではないだろうか。
普通。それは当たり前のように使っていた言葉だ。だが、その意味を聞かれても、明白な答えが即座に出てこなかった。普通は普通だから。それ以上でもそれ以下でもないから。
「ねえ、おじさま。普通、説明できないでしょ?」
桜色の髪の女の子の瞳には光が戻っていた。
「説明できるわけがないんだよ。普通って言葉は、脳みそを使ってない言葉だからね。普通っていうのは逃げの言葉なんだよ。何も考えていない空虚な言葉。便利ではあるけれど、中身のない、空っぽの言葉。だから、説明できない」
桜色の髪の女の子の言葉は、まさにわたしが感じたことそのままだった。
「おまけに、普通って言葉は、中身が空っぽだから、いくらでも、その中身を入れ替えることができる。つまり、その意味を変化させることができるんだよね。ねえ、おじさま、わたしたちってどういう集団に見える?」
「……大学生のサークルとかに見える」
唐突な質問の意味を図り損ねる。
「そうだね。そう見えるよ!」
桜色の髪の女の子のは嬉々とした表情を見せた。
かと思ったとたん、また眼が漆黒に染まった。背中に冷汗が伝う。
「だけど違うんだよね」
桜色の髪の女の子は人差し指を桜色のリップで彩った唇に重ねた。
「わたしたちは、元不登校児なんだよ」
そして、と言葉を続けた。
「今では会社の社長だよ」
普通じゃない!
「普通じゃない!」
わたしの心の声と、桜色の髪の女の子のの声が一致した。そのことにわたしが驚嘆する一方、桜色の髪の女の子は大きな笑みを浮かべた。
桜色の髪の女の子の言葉は止まらない。
「だけど、この状況では、おじさんの方が異質なんだよ。だって、今のわたしたちのグループは元不登校児でかつ会社の社長でることが、普通のグループ。その中にあって、サラリーマンであるおじさんは、普通じゃない。でしょ?」
ぐうの音も出なかった。桜色の髪の女の子の言う通りだ。
桜色の色の髪の女の子は、先ほどの自分の言葉を、自分で説明してみせた。
普通という言葉は変化する。
サラリーマンであるわたしは、たしかにこの国においては大多数だろう。つまりは普通といえる。だが、この状況ではわたしは異質だ。このグループの普通は元不登校児かつ現社長なのだから。
「みんな普通、普通って連呼する。だけど、その普通って言葉の中身まで考えて使ってる人なんて、ほとんどいない。普通って言葉を免罪符にしているだけ。だから、自分が思う普通が通用しなくなった途端、混乱する。どうしたらいいんだって、どうすればいいんだって、ね」
わたしは口を噤むほかなかった。まさに、今のわたしがそうだからだ。
「だから、普通なんて言葉にすがったら、いけないんだよ」
桜色の髪の女の子は、吐き捨てるように言う。
「普通は、すぐにわたしたちを裏切るから」
言い終えると、桜色の髪の女の子はわたしに手を差し出した。
その手をわたしは思わず凝視した。この手の意味は、何だ?
「さて、おじさま。わたしはあなたに手を差し出した。この手を取ればきっと、わたしは、いえ、わたしたちはあなたの助けになれるはずだよ」
挑戦的な笑みを浮かべてくる。
「ま、普通なら、この手を取らないだろうけどねえ」
わたしは、酷く苛立った。本当に、心の底から腹立たしかった!
……年長者に対して取る行動ではない。なんて生意気な娘なんだ!
そう、この小娘と話す以前なら手を払いのけていただろう。
けれど、わたしは自分の考えを恥じていた。
井の中の蛙大海を知らず。
このことわざは、今のわたしのためにあるように感じた。
わたしは普通という言葉を、普通に使っていた。だが、その普通という言葉は意味のない言葉だった。
わたしはわたしの作り上げた普通の中で生き、そしてその普通が通用しなくなって死んだ。
わたしはその言葉に騙されていたことに、この年になってようやく気が付いた。
そして、それを気が付かせてくれたのは、目の間にいる桜色の髪の女の子だ。
わたしは一つ深呼吸をした。
この桜色の髪の女の子の手は、わたしの覚悟を問うている。
普通の中で生きるか。普通を踏み倒して生きるか。
もはや、選択するまでもなく、わたしが取るべき行動は決まっていた。
「これから、よろしく頼む……いや、よろしくお願いします!」
わたしは桜色の髪の女の子の手を両手で取り、深々と頭を下げた。
頭を下げるなんて、一体、何年ぶりだろうか……!
桜色の髪の女の子のは小さく笑った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
桜色の髪の女の子は、わたしの手をぐいっと引っ張った。
態勢が崩れる。でも、わたしは自分の足で踏ん張った。
「おじさま」
桜色の髪の女の子の声が耳に響いた。
「人生はいつでも終わる。それはその人が自分の人生を諦めた時にね。わたしの人生は、不登校になった時に終わりかけた」
でもね、と桜色の髪の女の子は破顔した。
「人生を諦めない限り、人生はいつまでも終わらないんだよ!」
風が吹き、桜の花びらが一斉に舞った。その桜の花びらが桜色の髪の女の子の周辺を包み込んだ。
「さあ、おじさま! 人生の続きを始めよう!」
~FIN~
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