3.薄気味

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3.薄気味

 ホラー映画が典型的だと思うが、これでもかこれでもかと人を怖がらせ、驚かせようとすると、かえって滑稽な感じがすることがある。怖い映画がおかしい映画になったりするのもそれはそれで趣向のタネだと鑑賞の仕方を案出する人もあるだろう。こういうと複雑そうだが、まだB級ホラーの楽しみ方の入り口にたどりついたのにすぎないのだろう。  しかし、そういう方に話を進めるつもりはない。言いたいのは怖いという感覚は強ければいいというものではないということである。食欲や性欲に伴う快感は度が過ぎれば苦痛になるが、恐怖という感覚は刺激が過ぎると警戒信号の弛緩、つまりバカバカしくなって笑ってしまうという結果になるのだろう。とするならば怪談も強烈さをねらうばかりではあまり能がなく、薄気味悪いくらいの方がいいのかもしれない。程度において過ぎることなく、内容においてはっきりしない方が怖いのではないか。……いずれにしても人それぞれであろうが。  夜中に独りで作業をしている時にいろんな物音がするのは薄気味悪いものだ。何か考えつめていると、ピシッと木材がはじけるような音がする。自分の住んでいるところは鉄筋コンクリートに安っぽいベニヤ板をはりめぐらせたような造りだから、そんな音がするのは解せない。怖いなと思うとピシッとまた鳴る。いやなことをしやがると思うと静かにしていて、こちらの注意が逸れたのを見計らったようにピシ、ピシっと音が連続する。……まるで「さとるの化け物」のようだと思う。人が考えていることを先回りして当てていく妖怪だが、あれも怖いと思う人とピンと来ない人があろう。隠しておきたいことを横でぺちゃくちゃしゃべられたら愉快ではないけれど、自分などは始終くだらないことばかり考えているから、それをいちいち言い当てられても、怖いというよりご苦労なことだと同情してしまいそうだ。  化け物の側から言えば次々と当てられた者の息が上がったところでとり殺すのが基本戦略のようだから、長期戦向きではないと思料される。夜中の不審な音も冷静に考えれば鳴ったからといってどうということもないが、よからぬことが起こるのではないかという人間誰しも持っている不安につけ込んでいるのやも知れぬ。ポルターガイストの方を先に持ち出すべきだったかもしれないが、そんな洒落たものを気にしているわけではなく、例えば身内が死んだという電話が入ったりすれば虫の知らせだったかと思うだろうし、そういうときに電話が鳴っただけで情けないくらいびくっとする。  なんでもつなげて考えるのは人間の習性のようなもので、心霊写真なんかもそういうのが多いのではないか。見ようによっては人の顔に見えるものはいくらでもあって、点が3つ逆三角形に配置されていれば十分である。なんとか効果というそうだ。あるはずのない手が写っていたり、あるはずの足が写っていなかったりするのもあるが、意図的に作ろうと思えば簡単なものばかりのような気がする。ましてや今はほとんどがデジタルになっているから、その気になればまあなんでも作れるわけで、それだけに薄気味悪さを出すのはむずかしいような気がする。大昔のテレビでは霊能者を名乗る人が「この写真には怨念がこもっています」と重々しく判断して人気を博していた。ひねくれ者の自分は何十枚と焼き増ししてもそうなのか、怨念が増加するどころか薄められたりしないのかと余計な心配をしていた。  昔から言われていることだが、幽霊は人につき、妖怪は場所につくそうだ。確かに自分を殺した相手に「うらめしや」と言って出て来るのは幽霊なんだろうという気はするし、あずき洗いはいつも川原にいるのだろう。しかし、妖怪はマンガやアニメではいろんな場所に行って活躍しているようだから、昔はそうだったというくらいに思っていた方がいいのかもしれない。それよりは妖怪は人間とは違う外見をしているが、幽霊は足がないくらいの違いしかないと言った方がいいように思う。こう言うとすぐにあれは円山応挙が怖くしようとして幽霊の足を描かなかったからだと言う人があろうが、それは水木しげるが描いた妖怪を全く無視して妖怪談義ができないのと同じで、幽霊や妖怪のことがわかっていない者の言うことだろう。もっと簡単に自分は足のない幽霊しか見たことがないと言ってしまえば議論は終わる。  最近はこの世に怨みを残して死んだ霊でも場所につくことが多いように思う。「心霊スポット」とかで検索すれば廃病院だのトンネルだの薄気味悪い話を大量に読むことができる。これは幽霊が妖怪化したわけではなく、要は相手は誰でもいいという無差別殺人や貞操観念のない女と同じような具合で、世相の荒廃が幽界に影響していると社会批評してみるのも気が利いているかもしれない。恐怖は人の心や世相を映し出す鏡だと言えば感心してくれる人もいるだろう。  そういうところに出没するものを除霊してくれる者もいたりするが、彼らの霊験の根拠となるのが仏教なのか新興宗教なのかそれすらよくわからない。ああいうのを見ると平安時代の物語なんかに出てくる病気平癒のための加持祈祷を行う僧侶や陰陽師を思い出されるわけで、人間の心の弱さはそうそう変わるものではないとまたわかったようなことを言ってみたくなる。しかし、偉そうなことを言っても昼間だってそんなところにわざわざ行くような勇気や好奇心を自分は持ち合わせていない。
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