3.薄気味

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 物の怪というものもある。と言うよりは「源氏物語」などにも出てくる、幽霊や妖怪なんかよりずっと歴史のある由緒正しいものだ。死んだ者に由来する死霊だけでなく、生きている者からも生霊として出てくるのは広く知られているだろう。怨みを持った者が祟りをなすときに物の怪になると考えてもいい。「怪」は気であり、気配という意味に近いが、もやもやした漂うものだから、それを怪異に感じる場合に怪の字を使ったのだろう。「物」はもちろん物質に限らず、人を表わす「者」も同じ語源だから「もの」と書く方がいいだろう。  では、「もの」とは何か。非常に広い意味を昔も今も持っているから、一言で言えるものではなく、目に見える対象も見えない対象もすべて含みうる。およそ名詞である限り「もの」で代替できない「もの」はないように思う。  ただ今の話の流れで言えば「もの」は物質とは正反対の霊というか魂というか、もう少し広く、目に見えないけれど、人に作用するものが問題になるだろう。もののけ以外の例を挙げると昔は「もの忌み」という言葉があり、祟りを避けるために外出を控えたりした。迷信であるが、それを笑う資格のあるのは親の葬式を友引に行い、年賀状を平然と出す人だけであろう。忌中、喪中というのは死の穢れ、つまるところ死者の祟りを恐れているので、本来の仏教とは無関係である。ついでに言うと日本の仏教は葬式仏教などと言われるが、実際ふつうの人が僧侶と関わりを持つのは葬式や法事といった死亡関係だけだろう。ところがそこで行われている儀式はすべて本来の仏教とは関係がない。これは何もお釈迦様まで遡って言っているのではなく、空海や道元や親鸞や日蓮といった日本での宗祖の教えから見てもそうだろうと思う。こう書いて誰か反論できるだろうか。  もの忌みから話が横道に逸れてしまった。今でも使われている言葉をもうちょっと見ると、もの憂い、もの悲しい、もの足りないなどは「なんとなく」という意味を付加しているように見えるだろう。また、ものの数、ものわかり、もの心などでは世間とか自分が住んでいる世界全般を指していると理解できそうだ。ものぐさもこれに近いかもしれない。  しかし、そんなことを言わないでも「もの」を漂う霊魂と置き換えればすんなり意味が理解できるのではないか。もの憂いやもの悲しいは自分が意識しているのではなく、霊や魂がこの世に満ち満ちていて、そうした「もの」が心も体も動かしていると考えてはどうか。「ものすごい」の場合に「もの」がなぜすごいを強めるのかもわかってもらえるかもしれない。  ものもらいという目の病気があるが、あれは誰からもらったのか。ものものしいとはどういう状態なのか。自分には霊や魂がひしめき合っている状態に思えるのだが。……こう考えていけば薄気味悪さを感じる時にも「もの」に作用されているように思えるのだが、どうだろうか。
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