染井吉野

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 染井吉野が絶滅して百年。  その春、上野公園の染井吉野は花を咲かせなかった。誰もが開花宣言間近に起きた嵐によって花芽が落ちたのが原因だと思った。しかし、同じ日に西日本では三分咲きの染井吉野が花も花芽も落としていた。東北ではまだ小さく硬い花芽を落としていた。公園の染井吉野も個人宅の染井吉野も遠く離れたアメリカの染井吉野も全て同じ日に花芽を落とすとそのまま枯死した。  数百種ある桜の中で枯死したのは染井吉野だけだった。隣接する桜、近縁種の桜は例年通りに花を付け生い茂り秋に落葉して迎えた春には、また花を付けた。他の植物でも異変は見つからず染井吉野だけに起きた現象だった。  花芽を落とした時には、どこのソーシャルネットでもトレンド入りする話題だったが、花が散るように話題が消えるのも早かった。  世間の関心が廃れても専門家は原因解明を続けていた。街中から枯死した染井吉野が撤去され別の街路樹が根付いた頃ウイルス説と環境説が発表された。どちらの説も話題を集めたが説を裏付ける証拠が見つからず実証実験も失敗に終わった。 「教授、染井吉野が絶滅した原因は分かったのですか?」  ゴドウィン教授はコーヒーを手に首を横に振った。 「結局、どの説も決め手がなかったよ。北半球も南半球も関係なく同じタイミングで起きた事を説明できなかったから」 「でも、同じタイミングで起こせる原因と考えれば、数も絞れると思うのですが?」 「当時の専門家も同じ事を考えていたよ。寿命説は接ぎ木で増やしていたから説得力があったけど、これも決め手とならなかったよ」  穂村は考え込んでしまった。寿命説が原因だと推測していたからだ。 「当時の技術では寿命説を裏付ける証拠を見つけられなかったのですか?」  ゴドウィン教授は論文ライブラリーにアクセスすると、件の論文を表示した。 「寿命説には二種類あって、根からの距離が限界に達したと考えたものと、細胞分裂の回数が限界に達したと考えたものだった」 「根からの距離とは・・・剪定すれば近くなりますよね?」 「初代と言えばいいかな? その木の枝を接木で増やしている訳だけど、その初代の木の根から距離に着目した考えだ」  ゴドウィン教授は、ホワイトボードに接木で増やした回数を初代の木の枝に描き足していった。 「たしかに、根から水分を送るには距離がありますね」 「その通り。葉で光合成した栄養を根に送るにも距離があるのが分かると思う」 「実際には接木によって距離の問題はリセットされませんか?」 「彼らの論文を読むと、生長を続ける事で養分を送る能力が衰えると考えていたようだ。どの樹木にも高さ方向にも横方向にも生長の限界がある。それに着目したようだ」  ゴドウィン教授は別の論文を表示すると話を続けた。 「その検証がこの論文。各地にあった染井吉野の履歴を調査したところ、複数の種子メーカーが販売元だと分かった。どこの種子メーカーも親木の枝先を使い苗木を作っていた。簡単に言うと一歳違いのクローンが大量に作られていた事になる」 「と言う事は、枝先で一年を過ごすか。切り取られてから一年を過ごすのかの違いはあっても、初代からの生長した距離は一緒と言う事ですか?」 「当時の人はそう考えて、接木によって距離の問題はリセットされないと考えた。これは細胞分裂の回数と置き換える事も出来る。これで染井吉野の枯死原因が確定した」  ゴドウィン教授はこれで解決したかのように言った。  穂村は、今の会話を振り返っていた。老木の枝先から取っても若木の枝先から取っても根からの距離は同じなのか? 距離はともかく細胞分裂の回数は同じかも・・・・? 「一本の染井吉野から接木を使って増やしていった。それだから同じタイミングで枯死が起きた。少なくとも細胞分裂限界説に矛盾を感じませんが・・・・現在は否定されている?」  ゴドウィン教授は、ニンマリすると穂村に質問した。 「枯死した染井吉野の履歴を追うと寿命説で説明できると思った。しかし、それを裏付ける事が出来なかった・・・」 「なぜ、出来なかったのか・・・」  調査段階では確信した寿命説の問題点・・・・。細胞分裂の限界ってテロメアが細胞分裂を繰り返す事で短くなっていた? 動物の細胞では短くなるテロメアだけど植物では短くならない。テロメア以外に寿命を司る遺伝子が存在するのか? と、細胞分裂に限界のある動物の場合と比較して穂村は問題点を考えていた。 「・・・『細胞分裂限界遺伝子』に相当するものが発見できなかった。親にあたる大島桜も江戸彼岸にも潜在遺伝子としてあるはずの『細胞分裂限界遺伝子』が発見できなかった」 「メンデルの法則だよね。仮にその潜在遺伝子があったとして単純組合せなら両方から受け継いだ場合に『細胞分裂限界遺伝子』が顕在化する事になる。その確率は四分の一。複数の要素が必要な場合は顕在化の確率は更に低くなる。しかし、病害虫に強い染井吉野を求めて沢山の交配種が作られているので、近縁種で似た現象が起きないほどに確率が低いとは思えないよ」 「突然変異で染井吉野にだけ『細胞分裂限界遺伝子』が発現した?」  穂村は答えを知っている教授に追い込まれている感じになっていた。 「突然変異であれば、親木にない遺伝子もあり得る」 「はい、欠損によって現象が起きる可能性もあります」 「確かに異常現象と捉えればそう言う事になる。まず、染井吉野の両親は正確に言うと大島桜を主とした交配種と江戸彼岸を主とした交配種らしい。それなので、この木が父親です。こちらが母親です。と、特定しなければ突然変異の証明である親木にない遺伝子を特定できない事になる。その裏返しで欠損している遺伝子も特定できない」  穂村は表通りの賑わいが聞こえる路地裏で迷子になっているもどかしさを感じていた。 「教授、根からの距離が限界の説も否定されていますよね?」 「これは比較的簡単に否定されたよ。前提条件は遺伝子が正常に働いて根からの距離が限界に達した事になる」 「あ、なるほど。根からの距離を表す化学物質が存在しなければ距離は分からないですよね」 「考えてみれば、生長限界は水分の吸い上げ能力など物理的な側面が大きく、化学物質で根からの距離を把握する必要はないのだろう。染井吉野からも他の品種からもそれに該当する化学物質は見つからなかったよ」 「それでは原因究明は頓挫したのですか?」 「寿命説を裏付ける物証も否定する物証もなかった。そうなると、諦めきれない。出来ない理由を説明できない。他社との差別化の好機など色々な思惑が入り混じった状態となり・・・。染井吉野再生プロジェクトに繋がったよ。再生できれば原因が分かるだろうと」 「どれぐらい参加したのですか?」  プロジェクトを立ち上げた組織をグループ別にまとめた資料を表示した。 「参加ではなく各々がプロジェクトを立ち上げて取り組んでいた。種子メーカー、医薬品メーカー、大学、研究機関などが名乗りを上げていたよ。染井吉野で花見をしたい、その希望を独占できれば相当のインパクトがあるからね」 「うちの大学はプロジェクトを立ち上げなかったのですか?」 「理由は分からないけど、立ち上げなかった。失敗しても知見を深める事が出来るのに残念な判断だと思うよ」 「失敗するのが分かっていたからですかね?」 「それは分からない。ただ、頓挫したグループはあったようだ。肝心の染井吉野のサンプルが手に入らなかったから。枯れた染井吉野から活性細胞を探し出して培養しようとしたけど、枯死してから年数が過ぎていたので材木や標本など数が限られていたようだ。活性細胞が手に入らないグループの中には近縁種の細胞に染井吉野の細胞核を移植する方法で再生を目指したところもあったよ」  再生プロジェクトの取材映像を再生すると音声をオンにした。  研究員が冷凍保存されていた染井吉野のサンプルを取り出すと細胞単離装置に入れた。ほどなく装置からサンプルを取り出すとピペットで細胞を吸い出し培養シャーレに数滴ずつ垂らしていった。顕微鏡で細胞の状態を観察すると恒温恒湿装置に入れた。  二か月後、装置の観測窓から映した培養シャーレには、大きな塊から葉が伸び、根が伸びていった。  別の取材先の映像に切り替わると、材木屋から仕入れた染井吉野の枝から樹皮を剥がすと内側の柔らかい部分を小さく刻み細胞単離装置に入れた。ほどなく装置からサンプルを取り出すと、顕微鏡で確認しながら細胞核を取り出していった。  シャーレ上では、大島桜の卵細胞に染井吉野から取り出された細胞核の移植が行われた。それを恒温恒湿装置に入れ二か月後にはサンプルから根や葉が出ていた。 「映像はここで終わりだけど、培養シャーレで順調に生長した染井吉野は鉢植えにしても順調に育っていた。冷凍保存のサンプルを使ったグループも細胞核の移植を行ったグループもスクスクと生長していった。そして、開花の時期に合わせてプロジェクトの成功イベントを開こうとした矢先にどこのプロジェクトも枯死してしまった」 「結末を知っていても信じがたい展開ですが、開花の時期に一斉に枯死したと言う事ですか?」 「再生プロジェクトに熱心だったのは日本のグループだったので、南半球でも枯死したのかは分からない」  穂村は絶滅の状況を思い返していた。 「再生プロジェクトのサクラは花芽が付くまで数回の春を経験しているはずですよね?」 「花を付ける体力が必要だからね。ところで、絶滅した時に接木したばかりの幼木はどうなったと思う?」 「接木したばかりの幼木は・・・、枯れた。なぜなら、接木しているのは成木の枝先を使っているから」 「その通り。再生プロジェクトは培養室内では順調に生長し屋外に出したら枯死したと思われた。そして、ウイルス説や環境説が再注目された。しかし、絶滅の時は南半球も同時だった事で寿命説に戻ってきた」  ゴドウィン教授は、染井吉野の絶滅と再生プロジェクトの失敗の要点をホワイトボードに書いた。 「再生プロジェクトの知見を纏めると北半球での開花の時期が枯死のトリガーとなった。培養室が枯死からのプロテクトになったと考えた。絶滅の時も再生プロジェクトでも枯死は北半球での開花の時期に重なるから整合性が取れている。しかし、培養室がプロテクトになったのかは絶滅時に該当する記録がないので肯定も否定も出来ない。そしてまた、ウイルス説と環境説が見直された」 「迷宮入りに見えますが寿命説は消えたのですか?」 「実は、ある再生プロジェクトが絶滅の八十年前に冷凍保存された染井吉野を使っていた。もし、寿命説が正しいなら再生プロジェクト後八十年は花を咲かせるはず。それが枯死したのでウイルス説又は環境説を裏付けたと考えたのだが、まさかの展開が待ち受けていたのだよ」 「ほぼ染井吉野の新しい交配種が出来た?」  ゴドウィン教授には予想外の回答だった。 「外れだけど素晴らしい回答だ。交配種は再生プロジェクトの一環でも進められていたけど、姉妹は双子にはなれなかった。似ている桜は出来たけど、似ているだけに違いが際立ってしまったようだ。実物を見た事があるけど、葉が出てから花が咲いては魅力が半減するのが良く分かったよ。そして、まさかの展開とは染井吉野のサンプルを使い果たしてしまい、原因解明も再生プロジェクトも出来なくなってしまった」  必ず結果が得られるとは限らないのが科学の現実であったが、サンプルが残っていれば未来に託す事も出来たのに・・・。 「サンプルが残っていれば、教授が開発したクリーチャーメーカーで遺伝子情報を逆アセンブルが出来ましたよね」 「私も同じ事を考えたよ。染井吉野の再生プロジェクトの話しを聞いた時にはクリーチャーメーカーの真価を世に知らしめる事が出来るとね。それで染井吉野の絶滅と再生プロジェクトを調べた結果が今の話の通りだ」 「染井吉野のサンプルがなければ、遺伝子の逆アッセンブリが出来ませんよね?」 「確かに調べた結果、染井吉野のサンプルは残っていなかった。再生プロジェクトで枯死した染井吉野は残っているようだけど、出せない理由があるらしい。そこで博物館に問い合わせをしたところ『大正時代の生活習慣』カテゴリーに染井吉野の小枝があったよ。枝を持ち帰って飾る習慣があったらしい。そこで、葉を二枚譲り受けてきた」  ゴドウィン教授は満面な笑みで引き出しから葉が入ったシャーレを取り出した。 「さて、院生の穂村くん。二時間近くの特別授業で概要が分かったと思う。これで先人の足跡を活かして前に進む事が出来る。あなたも先人の期待に応える事が出来る」 「クリーチャーメーカーをアピールする絶好のチャンスなので教授自ら進めると思って聞いていました。私が進めていいのですか?」 「自ら進めたい面白いテーマだけど、染井吉野を再生するにはクリーチャーメーカーのバージョンアップが必要だ。それは自分にしか出来ない。残念ながら同時並行できるほど難易度の低い問題ではない。それに、何を相談するために来たの?」 「研究テーマの相談・・・です」    ~・~・~  高さ二メートルほどの染井吉野を前に穂村は立っていた。花芽を膨らませる事なく、この染井吉野は枯れたのだ。 「枯れたのか」 「あっけないほどに・・・・、大正時代のサンプルなのに、ダメでしたね」 「でも、あちらは綺麗な花を付けたじゃないか」 「無菌室で水耕栽培の染井吉野は花を付けました。この条件により寿命説はほぼないと思います。大気中の浮遊物質のどれかに影響を受けた事になるので」  枝には弾力が残っていたが断面には緑がなく木部になっているのは一目瞭然だった。この実験結果は予想の範囲と言えたが、遺伝子の解析だけでは辿り着けない領域に答えがある事を意味していた。 「自然環境下だと枯れた。クリーチャーメーカーで同じ答えが得られていた?」  穂村は首を横に振った。 「無菌室内の染井吉野は枯れてないのでシミュレーション通りです。遺伝子的には自然環境下でも枯れずに花を咲かせるはずでした」    ~・~・~  穂村は博士課程が終っても大学に残り染井吉野の研究を続けていた。クリーチャーメーカーで遺伝子の欠損を見つけて補えば開花すると思っていた。しかし、扉を開けないと次の問題が見えてこない迷宮を彷徨っているようでもあった。  講義を受け持つようになり思考の中断があるのは研究の足枷である反面、学生との質疑に大いなるヒントが隠れている時もあった。 『植物にもアレルギー反応があるのか?』  植物には動物と違う免疫機能はあるが、動物のように好中球は存在せず自己組織を攻撃する免疫の暴走は存在しない。学生の求めていた答えはそれであっても、私の回答としては落第点だ。再生プロジェクトでは培養シャーレを無菌室では管理していなかったのだ。私は無菌室の設備に恵まれたに過ぎなかったのだ。  樹皮が枯れ木部になるには致死遺伝子の働きが必要だった。その致死遺伝子を活性化するのが時計遺伝子だった。落葉も開花も時計遺伝子からの化学物質によって全体の同期をとっていた。南半球に移植しても十月の春に染井吉野が開花するのは日照や気温以外にも他の植物が発する化学物質で同期をとっているはずだった。 「もうすぐ式典だね。穂村准教授」  ゴドウィン教授は三分咲の染井吉野を一緒に見上げていた。 「はい、思った以上に年数が掛かりましたが、クリーチャーメーカーでシミュレーションしたお陰で開花に辿り着けました」 「博物館にもお礼を言わないとね。結局、あの小枝は全部貰ってしまったからね」  穂村准教授は成果を手放しで喜んではいなかった。 「ゴドウィン教授。花は咲くようになりました。たぶん来年も咲くでしょう。でも、成功したと思えないです」  ゴドウィン教授は言わんとする事に察しはついた。しかし、穂村准教授を次のステップに進めるには言語化が必要だった。 「今回のポイントは、時計遺伝子を活性化する受容体を取り除く遺伝子改変行った事で花が咲くようになった。これで真の原因に辿り着いたと言って良いのでは?」 「花が咲くまでは、花を咲かせる事こそが原因の解明で問題の解決だと思っていました。しかし、花が咲いてゴールに着いたからこそ、ここがゴールではないと気がつきました。染井吉野は時計遺伝子に頼らなくても日照や気温で修正され開花します。致死遺伝子は篩管を作り季節に応じて落葉させました。それなのに、時計遺伝子は生存に不可欠な部分を造る遺伝子に内包されていました。致死遺伝子も同じように必要不可欠な遺伝子の中に組み込まれていました。まるでトロイの木馬です」 「つまり、その部分で突然変異が起きると生存できない。だから子孫を残せず変異も受け継がれない」 「はい、最初は時計遺伝子の除去若しくは無効化を考えましたがクリーチャーメーカーで何度シミュレーションをしても生存できませんでした。そこで時計遺伝子を活性化する受容体をなくしました。でも・・・・」  穂村准教授は言葉にして良いか迷っていた。 「受容体を刺激する化学物質が特定できない?」 「それです。植物同士は日常的に化学物質でコミュニケーションを取っています。それなので、受容体に嵌まるサイズの化学物質を探しました。しかし、開花の時期に増える化学物質を特定できなかった」 「絶滅から百年過ぎているのに、未だにそのトリガーは毎年開花の時期に放出されている? それとも、百年前を境にそのトリガーを受け入れるように染井吉野が変わった?」  ゴドウィン教授は自分でも荒唐無稽だと思った。絶滅はさせられる事があっても自ら選ぶとは思えないからだ。 「ゴドウィン教授から頂いた研究テーマが私のライフワークになりそうです。今言われた事は災害や生存競争以外で絶滅が起こると言っています。研究を通して私もそう感じていました。私はその答えが知りたいです」  大学の職員が壇上へと促している。まだ三分咲きの染井吉野だったが快晴の青い空に桜色が綺麗だった。   了
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