血の花束に愛を込めて

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「大丈夫。これは二人だけの秘密だ」  薄暗い教室に、低い声が響く。  震える身体を強く抱きしめて、言い聞かせるように言葉を紡いだ。 「俺が必ず、きみを守るよ」  少女は涙に濡れた顔を、男の胸に埋める。ひく、と小さな泣き声が男の鼓膜を揺らした。 「大丈夫。絶対に、秘密だ」  静かな教室には、少女の泣き声と男のやけに優しい声だけが響いていた。    その日はいつもと何も変わらない、平凡で平穏な一日になるはずだった。  川上尚弥は学級委員の仕事、という名の雑用を押し付けられた。修学旅行のしおりを順番に重ね、ひたすらホチキスで留める、という地味な作業だ。  一人だったら愚痴のひとつでもこぼしていただろうし、最悪の場合、何か理由をつけて作業から逃げていただろう。  しかし、同じクラスの女子の学級委員である矢野明日実が一緒なので、文句は言うまい。  尚弥が明日実に好意を持ち始めたのは、最近のことではない。最初に好きだと思ったきっかけこそ思い出せないものの、半年ほど前から好意を抱いている、と尚弥は記憶している。  しかし明日実に告白する勇気はなかった。彼女はいつも笑顔で明るく、誰にでも分け隔てなく接するので、とにかくモテるのだ。  明日実に告白して玉砕した、という噂はしょっちゅう流れてくるので、自分が傷つかないように隠れファンでいることを選ぶ男も多い。  尚弥は、隠れファンというほど明日実との距離があるわけではない。同じ学級委員をやっているし、友達として会話をしたり、一緒に帰ることだってある。  それでも告白は出来ないままだ。何かきっかけがあれば、自分の気持ちを伝えたいとは思う。それでも、友人関係を壊してしまうかもしれない、というリスクと天秤にかけると、気持ちはまだしまっておこう、と思ってしまうのだった。 「尚弥くん、あとどのくらいで終わりそう?」 「残り三分の一ってところかな」 「私も。なんでたった二人に一学年分全部やらせるのかな」 「なかなかハードだよね」  他のクラスの学級委員も、それぞれ修学旅行に向けた何かしらの雑用に駆り出されているのだろう。  しおりを作る担当は、尚弥と明日実の二人だけ。いい加減紙を触りすぎて指先の感覚が麻痺してきたが、それでも尚弥にとってはラッキーな時間であることに間違いなかった。 「明日実さん、ちょっと休憩しておいでよ。疲れたでしょ」 「えっ、いいよ! だって尚弥くんだって疲れてるでしょ?」 「俺はまだ平気。ただ休憩するのは申し訳ない、ってことなら、散歩ついでにコーヒーでも買ってきてくれたら嬉しいな」  明日実は少し考えて、そういうことならお言葉に甘えて、と微笑んだ。  コーヒー代として五百円玉を渡し、明日実の背中を見送る。  校内にある自動販売機は三種類。その全てが一つの場所にまとめて設置されているので、明日実はそこへ向かうだろう。  今いる教室から自動販売機に向かうには、一度外へ出なければならない。ずっと室内で作業をしていたので、外の空気を吸った方がいいと思ったのだ。  だからといっておつかいを頼むのはやり過ぎたかな、と尚弥は苦笑する。  優しくしたい、と思って休憩を提案したが、一歩間違えばただの使い走りだ。  明日実が帰ってきたら、そういうつもりではなかったことを説明しなければ。  そう考えながら、尚弥は作業を続ける。しかし、十分、二十分、と時間が経っても、明日実が戻ってくることはなかった。  いくら待っても明日実が戻ってこないので、尚弥は校内を探し歩くことにした。もしかしたら何か面倒ごとに巻き込まれているのかもしれない。そう思ったのだ。  自動販売機の側には明日実の姿はなかった。責任感の強い彼女が、仕事を放り出して帰るとも思えない。それならば、校内のどこかで足止めをくらっているはずなのだが。  一つ一つ、教室を見てまわった。途中でふと、尚弥は気がつく。いつも尚弥や明日実が授業を受けている教室。その入り口から、缶コーヒーが顔を出している。床に落ちているそれが視界に入ってきて、尚弥の胸がざわりと嫌な音を立てる。  足音を立てないように、静かに教室に近づいた。どうして物音を立ててはいけないと思ったのか、尚弥自身にも分からない。でも、本能が音を立てるなと叫んでいる気がした。  ドアに近づくと、缶コーヒーと一緒にオレンジジュースの缶が転がっているのが見えた。  教室の中には、きっと明日実がいる。  おそらく何かトラブルに巻き込まれてしまった彼女が。  尚弥はおそるおそる、教室を覗き込んだ。  教壇のすぐ前に、見慣れた後ろ姿があった。明日実だ、と尚弥にはすぐ分かる。  しかし様子がおかしい。明日実はなぜか、床に座り込んでいるのだ。 「…………明日実さん?」  小柄な彼女の肩が、びくりと跳ねる。数秒の沈黙の後、明日実はゆっくり振り返った。  夕焼けを背景にしているせいか、明日実の表情はよく見えない。でも静かな教室に、やけに速い明日実の呼吸が響いていた。 「なお、や、くん…………」 「明日実さん? 何かあった?」  尚弥は教室に足を踏み入れ、明日実に近づく。一歩、また一歩と踏み出すたびに、鼻腔をくすぐる鉄の匂い。  何の匂いだろう、と眉をひそめるが、今は明日実の話を聞く方が先だ。  彼女の全身は、小刻みに震えている。そのことに気づけるほど尚弥が近づいたときには、『それ』も視界に入っていた。  机の間に隠れるように倒れている、女子生徒。見覚えのあるその顔は、間違いなくクラスメイトのものだった。 「…………っ、南雲、さん…………?」  名前を呼んでも意味がない。そのことは、尚弥にも分かっていた。南雲優奈の身体は文字通り血で溢れかえっていたのだから。  鉄のような匂いの正体は、優奈の血液だった。そのことを理解し、尚弥は明日実に視線を戻した。座り込んで震えている明日実が、何かを知っているかもしれない、と思ったのだ。  しかし、言葉で問うよりも先に、明日実の手に握られた小ぶりのナイフが真実を物語っていた。  血に濡れたナイフを握りしめたまま、明日実は泣きそうな顔をしている。 「尚弥くん……わた、わたし…………」 「明日実さん。大丈夫、大丈夫だから落ち着いて」  すぐそこに死体があるのに、大丈夫なはずがない。それでも明日実を落ち着かせるために、尚弥は言い聞かせた。尚弥の方を向いている限り、倒れている優奈の身体は明日実の視界に入らない。  まずは恐ろしい光景を見えないようにして、その上で話を聞くべきだ。    尚弥は明日実に手を差し伸べた。血に濡れたナイフを持つ、小さな彼女の手。それを両手で包み込み、秘密にするよ、と口にした。  明日実は泣き出しそうな顔で、尚弥を見上げる。 「たすけて、尚弥くん……」 「うん。俺が明日実さんの力になるよ」 「本当に…………?」 「本当だよ」  子どもに言い聞かせるような優しい声で呼びかけると、明日実はひく、と喉を鳴らした。大きな目から、ぽつりと涙がこぼれる。  明日実はぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、小さな声で語った。  自動販売機でコーヒーとオレンジジュースを買い、尚弥の待つ教室へ戻ろうとする明日実を、優奈が呼び止めた。 「……矢野さん、ちょっとだけ、相談に乗ってくれない…………?」  陰のある表情を浮かべる優奈が心配になり、明日実はためらうことなく頷いた。  尚弥を少し待たせてしまうことになるが、クラスメイトの相談に乗るのは学級委員の役目だと思ったのだ。  南雲優奈は、いじめられている。  クラスメイトの女子たちは、みんな揃って優奈のことを無視しているのだ。まるで空気のように、優奈をいないものとして扱うのだ。  明日実はこのままではいけないと、クラスの女子一人一人に話を聞いた。  どうして優奈ちゃんを無視するの? と明日実が訊ねると、「だってあいつ暗いし気持ち悪いじゃん」とみんな同じように答えた。  それでも優奈がクラスの輪に入れるよう、明日実は努力した。グループワークや修学旅行の班決めなど、複数人で行動しなければならないときは、率先して優奈を同じグループに誘った。明日実のグループに入れられないときは、「優奈ちゃんも仲間に入れてあげて」と他の友人に声をかけた。  明日実が声をかけると、女子たちはしぶしぶ優奈を受け入れてくれる。会話の中に優奈が入ることは決してなかったが、そのうちみんなとも友達になれるだろうと明日実は思っていた。  時間が解決してくれる、そう信じていたのだ。 「相談ってなに? 優奈ちゃん何かあった……?」  誰にも聞かれない場所がいいと優奈が言ったので、教室に移動した。帰りのホームルームが終わってから二時間近く経っているので、教室には誰もいない。そのことに安堵して、明日実は優奈に訊ねたのだ。  すると優奈は、自嘲するように笑った。 「何か…………? あるわけないよ」 「えっ……?」 「今日も、昨日も、先週も、先月も、入学してからずっと」  私、無視されてるんだから。  優奈が叫ぶように紡いだその言葉に、明日実ははっとした。  誰にも話しかけられない。  誰も答えてくれない。  いないものとして扱われる。  誰にも関わっていないのだから、当然何かが起きることもない。  失言だった。優奈がクラスで無視をされていることも、明日実は知っていたのに。  ひどいことを言ってしまった。咄嗟にごめん、と口にするが、優奈はその言葉に目を見開いた。 「ごめん? 何に対して謝ってんの?」 「えっ……優奈ちゃんを傷つけるようなこと、言っちゃったから」 「はいはい。さすが優等生様」  ずきん、と胸の奥が痛んだが、明日実は眉を下げただけで、言い返すことはしなかった。  きっと優奈は傷ついているのだ。度重なる無視、そして先の明日実の無神経な言葉。傷ついてどうしようもなくて、当たり散らすことしか出来ないに違いない。  それならば、自分が聞いてあげなければ、と明日実は顔を上げる。 「あの、優奈ちゃん。何か私に出来ることがあったら言ってね? 何でも相談に乗るから……」  ただの高校生である明日実に、出来ることなど限られている。それでも、優奈のために何かしてあげたいと、そう思った。  しかし優奈は汚いものを見るような目で明日実を眺めた後、かすれた声で笑った。 「じゃあ矢野さん、私のこと、殺してよ」 「…………えっ?」 「死にたいってずっと思ってたんだけどさ。誰にも何も関われないまま、仕返し出来ないまま死ぬのは悔しいじゃん」  優奈の言葉の意味が分からなかった。  ブレザーの内ポケットから、優奈が何かを取り出す。銀色に鈍く光るそれが、ナイフだと理解するのに、時間はかからなかった。 「矢野さんが私のこと殺して。それで、今後一生後ろ指をさされながら生きてよ。そしたら私の気持ちも分かるでしょ?」  私のために何かしてくれるんでしょ、ねえ、矢野さん。  続いた言葉に、明日実は無意識に後退りをした。しかし優奈はそれを許さなかった。明日実の手を掴み、ナイフを握らせる。慌てて手放そうとしたが、優奈が恐ろしいほど強い力で押さえつけてくるので、ナイフを捨てることも出来なかった。  ナイフが小刻みに揺れている。自分が震えているのだと気づくこともないまま、明日実はそれを手放そうと必死だった。 「聞いて、矢野さん」  明日実の手を押さえつける強い力とは裏腹に、優しい声で優奈が語りかけてくる。 「みんなが私を無視するなか、矢野さんだけはいつも声をかけてくれたよね。グループ分けとかのときも、私が余らないようにどこかに入れてくれた」 「ゆ、優奈ちゃん…………」 「私はね、そんな矢野さんのことが、大っ嫌いだったんだよ」  愛を語るような表情で、優奈は嫌悪の言葉を口にする。  やわらかい笑顔と突き刺さるような凶器の言葉。目と耳がキャッチする情報のギャップが、明日実のめまいを誘った。 「手を差し伸べるふりだけして気持ちよくなってんじゃねえよ、この偽善者」  ぞわり、と背中に悪寒が走った。  明確な悪意に、頭より先に身体が反応した。  目の前の危険因子から逃げようと必死だった。たぶん、力強い手を無理矢理振り払い、明日実は逃げようとしたのだ。  でも、その瞬間の記憶はない。  何かに手がぶつかった。それはやけに重たかった。  うぐ、と聞き覚えのある人の、聞き慣れない声がして、明日実はハッとする。  目の前には、お腹を押さえてしゃがみこむ、優奈の姿があった。  もしかして逃げようとした拍子に、明日実の手がお腹にぶつかってしまったのかもしれない。  慌てて優奈の顔を覗き込むと、やけに苦しそうな表情で脂汗をかいている。そんなに痛かったのだろうか、と視線を落とし、明日実は息を飲んだ。  小ぶりなナイフが、すっぽりと彼女の腹に埋まっていたのだ。ブラウスが赤く染まり、出血しているのが分かった。  全身の血の気が引き、明日実は震える手で優奈に手を伸ばした。 「ご、ごめんなさい……私、刺す、つもりなんて…………」 「いいよ、別に……。それよりこれ、抜いてくれない?」  痛いし気持ち悪いし、最悪だよ。  優奈の言葉に従い、明日実はナイフを握り、引っこ抜いた。肉を切るような感触が手に残り、寒気がした。  それよりも驚いたのは、傷口から血が溢れ出てくることだ。ぼたぼたと優奈の華奢な身体からは想像出来ないほどの血液が流れ落ちる。 「………………え」  その光景を見て、ようやく明日実は思い出した。  刃物が身体に刺さった場合は、抜いてはいけないのだ、と。刃物を動かしたり抜いてしまったりすると、そこから出血が広がり、失血死に繋がりかねないからだ。  保健体育の怪我人の応急処置などの授業で勉強したはずなのに。  優奈の顔からはみるみる血の気が引いていき、ついには床に倒れ込んだ。床を濡らしていた血が飛び散って、明日実は反射的に飛び退いた。 「…………矢野さん、おめでとう……」 「な、に…………なに、が…………」 「これで矢野さんは、人殺しだ、ね………………」  ぺちゃん、と変な音がして、優奈の顔が床に落ちた。意識を失ったのか、それとも死んでしまったのか。確認する勇気など、明日実にはあるはずもなかった。  ただ震える足で後退り、優奈の身体から少し離れたところでへたり込んだ。  ポケットに入れていた缶コーヒーとジュースが、ころころと転がっていった。そのことには気づかないまま、明日実は自分の手に握られたナイフを、呆然と眺めていた。  泣きながら語られた事実に、尚弥は言葉を失った。とにかく倒れている優奈の生死を確認するべきだろう。  素人目に見ても、出血多量ですでに息を引き取っているように見えた。それでも確かめずにはいられなくて、尚弥は床に広がる血液を踏まないよう、慎重に近づいた。  そっと手を伸ばして首筋の脈を探す。優奈の身体はまだほのかにあたたかくて、気味が悪くなって手を離した。  泣きじゃくりながら震える明日実に近寄り、その手からナイフを預かる。そして尚弥は血濡れた凶器を、そっと床に置いた。 「俺がなんとかするよ」 「………………え……?」 「大丈夫。これは二人だけの秘密だ」  明日実は何も悪くない。罰されるべきではないのだ。  尚弥の言葉に、信じられないという表情を浮かべ、明日実が何かを言いかける。でもそれは言葉になることなく、飲み込まれてしまった。 「明日実さんが南雲さんと一緒にいるところは、誰にも見られていないんだよね?」 「う、ん…………」 「じゃあ状況証拠だけだよ。明日実さんには、動機なんてない。アリバイもある。俺と一緒にしおりをずっと作ってた。そうだろ?」  でも、ナイフが…………。  そう言って明日実がまた泣き出してしまいそうな顔をするので、尚弥は思考をめぐらせる。そしてハンカチを使って教室のロッカーを全て開け、ありったけの体操着を取り出した。  男子のもの、女子のもの、そして尚弥自身のものや明日実のものも中には含まれているだろう。そんなことは関係なかった。  数枚の体操着を重ねて、ナイフについているであろう指紋を拭き取る。持ち手だけ綺麗になったナイフを優奈の腹に刺し直すと、明日実は短い悲鳴をあげた。念には念を入れて、再びナイフを拭き上げる。  その後は、先ほどロッカーから取り出した体操着を一枚、また一枚と床に落としていった。  優奈の身体と、血液が隠れるまで。誰のものかも分からない体操着を重ねて、重ねて、さらに重ねていくと、教室内に小さな山ができた。  怯えた表情を浮かべる明日実を強く抱きしめて、尚弥は耳元でささやいた。  震える小さな身体は、少し力を入れたら折れてしまいそうなほど細かった。 「俺が必ず、きみを守るよ」  ひくっ、と喉を鳴らして、明日実が尚弥の胸に顔を埋める。シャツがじわりとあたたかく濡れていくのは、きっと明日実の涙のせいだろう。それでもいいと、尚弥は思った。 「大丈夫。絶対に、秘密だ」  静かな教室に響くのは、明日実の泣き声と、尚弥の低い声だけだった。  明日実が泣き止むと、尚弥は明日実を家まで送っていった。二人きりの帰り道は少し緊張したが、どんな言葉も慰めにはならない気がして、言葉は紡がなかった。  家についても、なかなか明日実は家の中に入ろうとしなかった。  制服や持ち物に血がついていないことは確認済みとはいえ、早くシャワーを浴びて眠ってしまいたいはずなのに。 「明日実さん、不安?」 「…………うん」 「大丈夫。あれは二人だけの秘密だし、俺は絶対に明日実さんを守るから」  だから心配しないで、と尚弥が笑うと、明日実も力無く笑った。  また明日、とか細い声で呟いた明日実が、家に入ったのを見届けて、尚弥は学校へと引き返す。  学校はもう人がまばらだった。熱心に部活動をしている者は残っているが、ほとんどの生徒は帰宅しているだろう。  しかし尚弥は人目につかないよう慎重に行動した。教室に入るときはさすがに緊張したが、当然そこには誰もいなかった。  床に積み重なった体操着。その下には、優奈の死体があるはずだ。  尚弥は少しだけ考えて、ポケットからハンカチを取り出し、それを使って体操着を摘み上げた。ちらりと見えた優奈の顔は、とてもではないが見られるものではなかった。  せめて目だけでも閉じてやればよかったかな、と考えたが、そんなことをすれば痕跡を増やすことになってしまう。 「あーあ。まさか死んじゃうとはなぁ」  尚弥の言葉には、誰も反応しない。暗闇の広がる教室に、存在するのは尚弥と、優奈の遺体だけだ。 「確かに明日実さんのことを傷つけろ、とは言ったけど、身体張りすぎじゃない? そんなに俺のこと好きだったの?」  可哀想にな、と尚弥は静かに笑う。  とても単純な話だった。  尚弥は明日実のことが好きで、でも明日実を好きな男はたくさんいる。尚弥は有象無象の一人でしかなかった。  何かきっかけがあれば告白したいと思っていたが、根回しをしなければ玉砕して終わりだろう。  だから尚弥は考えた。  明日実が精神的に弱っているときに、助けてやればいい。辛いときに支え、手を差し出してやれば、きっと明日実の特別になれるはずだ、と。  明日実を傷つけるのに、ちょうどいい女がいた。同じクラスで空気のように扱われている女子生徒。唯一声をかけてくれる明日実に、感謝をするどころか、逆恨みをしている立場も弁えていない女だ。  親切にするふりをして声をかけたら、ころっと落ちた。南雲優奈は単純な女だった。自尊心ばかり高くて、口から出てくる言葉は明日実への嫉妬ばかりだった。  優奈が尚弥に対して好意を抱いていることは分かっていたので、その気持ちを利用することにした。  明日実と同じ学級委員だが、尚弥も明日実の態度には正直うんざりしている。自分をかわいいと思っている、いい子ぶっている、優しさの押し売り、人の気持ちが考えられない。適当に悪口を並べると、優奈は目を輝かせた。 『ムカつくからさ、ちょっと痛い目見せてやりたくない?』  尚弥の提案に、優奈は何度も頷いた。  ご主人様に尻尾を振る犬のようだ、と尚弥は思った。  それでも優奈はよくやったと思う。痛い目見せてやろうぜ、という曖昧な言葉だったにも関わらず、優奈なりに頭を使ったのだ。見事、明日実に一生ものの心の傷を負わせることができた。  本当は、最後のトドメをさしたのは尚弥なのだが、そのことを明日実は知らない。  倒れている優奈の生死を確認するとき、まだわずかに息があった。だから尚弥は、ナイフを彼女の腹に戻したのだ。そして万が一、優奈が一命を取り留めたとしても、ちゃんと窒息死するように、彼女の上に大量の体操着をばら撒いた。  死人に口なし。  死体は喋らない。  被害者はクラスメイト全員を恨んでいただろうから、誰と揉めたとしてもおかしくない。クラス全員が容疑者。尚弥や明日実にも容疑はかかるだろうが、それでいいのだ。決定打がなければ、捕まることはないのだから。  優奈の死が無事に確認できたので、尚弥は立ち上がる。教室を離れようとして、ふと振り返る。そして体操着の山に向かって、静かに声をかけた。 「あ、そうだ。お前のおかげで明日実さんと仲良くなれそうだからさ、報酬は払わないとな」  優奈は何と言っていただろうか。  うまく明日実を傷つけることが出来たら、ご褒美が欲しいと言っていたはずだ。  彼女の話にはとんと興味がなかったので、なかなか思い出せない。一分以上暗闇の中に立ち尽くしたまま、尚弥は考えていた。  そしてようやく優奈の要求を思い出す。 『うまくいったら、褒めて欲しいな……。その、嘘でもいいから…………』 『ん、なに?』 『嘘でもいいから、好きって、言って』  優奈とのやりとりが脳裏によみがえり、尚弥は笑った。  なんだ、かわいいところあるじゃん。明日実さんほどではないけどさ。  そんなことを心の中で呟いて、体操着に埋もれているであろう優奈に向けて囁く。 「好きだよ、優奈」  尚弥のために文字通り必死で頑張った忠犬に、ご褒美の言葉を。  教室にミスマッチなこんもりとした山は、ぴくりとも動かない。  精一杯の優しさで応えたつもりだが、すでに息を引き取っている優奈には届くはずもない。 「ま、もう死んでるし、聞こえてないだろうけどね」  せいぜい尚弥と明日実の二人だけの秘密のために、これからも身体を張ってくれ。  そんな残酷なことを願いながら、尚弥は教室を後にした。  家に帰るまで、尚弥が後ろを振り返ることは、一度たりともなかった。
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