虹色の人形箱

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虹色の人形箱  茶色の木目調な階段を上がりながら、スマートフォンで時間を確認する。  約束の時刻より十五分遅れてしまっている。ここへ向かうために乗ったタクシーが道を間違えたせいだった。  なるべくブーツの踵が音を立てないよう注意しながら階段を上り切り、ウッドデッキに立つ。途端、潮の香りが強くなった。風も感じる。自分の長い黒髪が顔のすぐ横で揺れた。海が近いレストランなので当然といえば当然で、こうした拓けた専用の空間で海を見ながらする食事が、私は大好きだ。  空間の縁、海がよく見える手摺側の席へと視線を巡らせて、目的の相手を見つけた。初めての対面では、どこに目を向けても周囲を美しい青さに囲まれているような、景観が私達を引き立ててくれるような、そんな席が良い、と事前に少々大袈裟な希望を伝えていた。律儀に約束を守ってくれたようだ。これには多少舌を巻きつつ、素直に感謝。  意識して慌てた様子を装いつつ、私はそのテーブルへと駆け寄った。 「ごめんなさい、お待たせしてしまって」  作った声色、申し訳なさそうに映るよう調整した表情、下げた自分の眉、そうしたものに対して、相手の男性は片手を振りながら笑って応じてくれる。 「いやいや、大丈夫ですよ。ほんの十数分しか経っていませんし、こうしてのんびりと、屋外でビールを飲んでいる時間が、僕は好きなので」 「本当にごめんなさい。お招き頂いたのに、私ったら……」  重ねて謝罪の言葉を述べつつ、相手の対面の席へと座る。その際、自然な動作でテーブル周辺を確認。オードブル扱いの品が一品。軽食だ。本格的な食事ではなく、ビールのつまみが役割なもの。相手側にブラックビールのグラスが一つ。減り具合からみて、おそらく二杯目。空きグラスは即座にウェイターが交換するシステムだからだ。単品注文をかけたということは、コースなどの面倒で過剰な料理の頼み方はされていない。よかった。食べ過ぎれば太るデメリットしかない。  ゆったりと目を上げて、彼を見る。  視線がぶつかり、彼が笑みを浮かべる。  私も、ようやく今落ち着いた、といったふうに、優雅に微笑んでみせた。  彼の年齢は五十に入ったばかり、といったところか。ゴルフシャツのような襟付きの白シャツ、髪はだいぶん後退して薄い。肩幅は広くて、お腹がぽっこりと出ている。加齢のテディベア、というワードが頭に浮かんだ。当然、口には出さない。肌は日焼けしていて、良く言えば健康的、言ってしまえば、私の好みとは正反対。ネックレスなどはしていない。悪趣味な金のネックレスをしていたら、反射的に引き千切って海へ放り投げてしまったかもしれない。左手首にはシルバーの腕時計。しっかり確かめなくてもロレックス。飽きるほど見る機会が多いので間違いはしないだろう。時計をどちらの腕に巻いているかで右利きだと分かったけれど、この情報は別に不要。左右のどの指にも指輪はしていない。開放的な景色に見向きもせず、私の顔にばかり向けられる熱視線を加味しても、既婚者ではないと断言してよさそう。 「あの、改めて、本日はお招きいただき、ありがとうございます。こんな素敵なレストランでお食事なんて、私、初めてのことで、緊張もしていまして」 「ああ、そんな固くならずに、どうかリラックスして、自然体で過ごしてください」  私の世辞に、彼はまた片手を振りながらにこやかに応える。 「しかし、そうですか。こういう場所は初めてなのですね。てっきり、社交的な方だと想像していましたよ」 「あら、そうなのですか?」私は小さく首を傾げてみせる。 「ええ。これまでのメッセージのやり取りも、しっかりした日本語ばかりでしたし、こうしてお会いした第一印象もそうです。服装は派手ではないし、言葉遣いも丁寧だ。実に礼儀正しい。例えば舞踏会や、社交パーティに、私と一緒に出席したとしても、今のままで十分通用するでしょう。それくらいには、女性としても、人間としても、貴女は完成されている」  彼はそこまで話してから、グラスを手に取り、そのほとんどを空けた。飲むペースが速い。アルコールには強いのだと分かった。これは、そこそこ重要。 「そう言っていただけると嬉しいです。あの、舞踏会や、社交パーティに参加されるのですか? これまでも、そういったご経験がお有りなのですか?」 「いやいや、ものの喩えです。今のご時世に、そんな催しなんて、そうないでしょう」  言って、彼は笑った。  合わせて、私も笑う。勿論、愛想笑い。  ここで、ウェイターさんが私達のテーブルへ歩み寄り、お飲み物はどうなさいますか? と聞いた。  私は白のワインと、白身魚のカルパッチョを頼んだ。彼は先程までと同じくブラックビールを注文して、料理は頼まなかった。 「カルパッチョに白ワインの組み合わせはいいですね。分かっている人の頼み方だ。素晴らしいよ」  ウェイターさんが離れた後、メニューが載った黒いバインダを片手に彼が言った。 「でも、食べ物、あれだけでよかったの? このお店オリジナルのスープや、ローカロリーなサラダとか、もっと他にも色々ありますよ」 「ええ、大丈夫です。お魚が好きなのと、元々小食なのです」私は答える。 「あぁ、そうなんだ。うん、確かに細いよね。でも、スタイルは良い。そういうファッションが似合うのも、体型維持に余念がないからだろう?」 彼はグラスを片手に笑いつつ、人差し指を私へ向けて述べた。  先程の例え話の同伴発言といい、たった今の動作と発言といい、徐々に崩れていく敬語といい、まったく失礼なものが重ねられていくけれど、私は、まあ、褒めてくださるの? ありがとうございますと、おどけて返した。自分の感情と、その時々に必要な言葉とを切り離して会話を続けるのは得意。  それに、今着ている黒いタイトなニットの服も、固めの生地ですらっと足許まで伸びる黒のロングスカートも、踵の高いシャープなブーツも、暴飲暴食などで崩れてしまったスタイルでは映えないだろうと容易に想像がつく。体型維持に気を遣い、食事量を制限しているのは事実だった。そういった意味では、彼の発言は的を射ている。問題なのは、それを本人の目の前で、本人に向けて放った、というデリカシーの欠如。 「ちなみに、こういう恰好は、どうですか? お好きですか?」  私は自分の胸元へ片手を当てつつ、彼に向けて問いかけた。 「うん、好きだよ。スタイルの良い女性は好きだ。階段を上がって、こちらへ歩いてきた瞬間は、全身真っ黒で少し驚いたけど、服のセンスは良いし、君は肌が白いから黒が映えて、よりお洒落に見えるね」  ええ、そうでしょうとも。  白と黒のコントラストを意識して装ったんですもの。自分の魅せ方は自分が一番把握している。 「気に入っていただけて、嬉しい。これも結構悩んだんです。子供っぽくてもいけないし、かといって、変に背伸びしても似合わないでしょう?」 「そうだ。ずっと聞きたかったんだけど、今、いくつなの? メッセージのやり取りでは秘密だと言われたし、こうして見た感じは、僕よりも結構下だよね」 「ふふ、いくつに見えます?」  不躾な質問に対しては質問で返すことにしている。トークのマナーとしてはNGだけど、先にマナー違反をするのは大抵、男性側からなので、正当化が許容される。 「う~ん、いくつかなぁ。難しいな」  彼は腕組みまでして、真面目に考え始める。 「落ち着きはあるけど、三十は超えてないように見える。顔も、露出してる肌も、全然老けてないしね。だから、そうだな、二十代後半かな?」 「半分だけ正解です」私は笑いながら応える。 「半分?」 「私、まだ二十五歳なんです。今年の夏で、二十六歳になります」 「あぁ、それで半分か。いやぁ、若いな。羨ましいよ。それに、うん、いいじゃないか。実年齢は若くて、パッと見は落ち着いた女性に映るというのは、完璧なメリットだよ。年齢と雰囲気っていうのは、いくつになっても何らかの形で、自分の武器にできるからね。こういったものは、女性としても誇らしいだろう?」 「ええ、ありがとうございます。そう言っていただけると……」 「嬉しい?」彼が先回りして口にした。 「はい、嬉しいです。やだ、もう、私の台詞取らないでください」  外野から、さらりと観察しただけなら、この空間で展開されるやり取りは、朗らかなものに映るだろう。互いに屈託のない笑顔。積極的な会話がなされている。男はハキハキと、女は優雅に、言葉を手添えで送り合う。停滞はなく、沈黙もない。意思の交流が滞りなく進行しているさまは、平穏の象徴と表現して差し障りない。ちらと覗く実態と、冷たく隠匿された真意はともかくとして。  言葉を交わしている合間にも、彼のところへビールが運ばれて、私のワインも届けられた。そこから少しだけ間を空けて、頼んでいた料理が到着する。  ナイフとフォークを使い、丁寧に口へ運んだ。美味しい。味付けもさっぱりとしていて好ましい。ここへきてようやく、私はこのお店が好きになった。今度はひとりで、もしくは友人と来よう。 「どう? 美味しい?」  ビールを飲みながら彼が聞いてくる。 「とっても美味しいです」  ワインのグラスを手に取りながら私は応える。 「あの、お料理はお食べにならないのですか? もう少しお飲みになってから?」 「ああ、お気になさらず。いやね、実は今日、午前中に仕事仲間と急な打ち合わせが入ってしまって、そこで結構食べちゃったんだ。貴女との会食の約束が元々あったから、僕としては、そんな打ち合わせよりもこちらの時間の方が何倍も楽しみだったんだが、しかし、まあ、あれだ、そういった席で出された料理にまったく手を付けない、というわけにもいかなくてね」 「そういうことでしたのね。ええ、分かります。大変ですね。お仕事も、お付き合いも。ままならないことの方が多いと聞きます」 「それでも、僕の場合は、ほどほどかな。そこまで不幸じゃない。追い詰められたりもない。自分が好きなことを仕事にできたぶん、苦痛だったり、不満だったりが少ない方だと自認しているよ。もっと大変だったり、時間的な束縛が多かったり、無理を強いられて身体を壊したなんて話を、昔の仲間からや、ネットでも、よく耳にする。そういったギリギリの働き方とは無縁で済んでいるから、マシな方だ」 「お仕事といえば、事前のやり取りでは、建築関係だとお伺いしました。主に個人住宅の設計やデザインといった分野が、ご専門だと」 「お伝えしましたね。そう、建築設計士をしております。世話になった事務所から独立して、自分の事務所を構えた。あれからもう、だいぶん長い」 「建築物自体がお好きで、その道に入られたのですか? それとも、建築物の内部から全体に至るまでの大掛かりな設計、デザインを含む独創へのこだわりや、強いご興味があって、突き進んでこられたのですか?」 「驚いたな。なかなか、お詳しそうだ」  存在を主張する、まるまるとしたお腹をゆすりながら笑った後、彼は言葉を続ける。 「女性の方から、現職と設計分野に携わるまでの経緯を聞かれたのなんて、それこそ昔に受けた雑誌のインタビューくらいですよ。出版関係の仕事をしているの? それとも、理工学部の建築学科出身とか?」 「いえ、どちらも違います」  私は微笑みながら質問をいなす。こちらの職業を明かすつもりは毛頭ない。 「私、趣味が芸術系なものでして、その関係で、建築物やデザインに前向きな興味があるのです」 「なるほど、そういうことね」  彼は頷き、ビールを一口飲む。 「じゃあ、あまり手加減せず、専門用語も交えて話させてもらっても大丈夫、という認識でいいかな?」 「はい。是非、詳しく聞かせてください」  私は頷いて応じ、先を促す。得意げに専門用語をひけらかすことが曖昧模糊な手加減の有無と、一体どう結びつくのかと内心、首を傾げつつ。  ここから約二十分間、換算して千二百秒ほど、彼は一方的に喋りつづけた。  西暦の何年から、自分がいくつの時に、どのようなきっかけで建築というジャンルに興味を持ったのか、同じ建築でも、実際の工事に携わる者と、そこへ電気や水道やガスを通すために肉体労働に従事し、インフラを整える者、全体を構想して現実的な形状に落とし込む者、それをお洒落に飾り付け、見栄えを良くする者、それを実行し、色を塗り、パーツを組み上げる者、ひとえに建築といえど、どの部分に関わるのかで、求められる資格も知識も技術も異なり、当然所属する会社も給与も待遇も、将来性だって違ってくる。そうした条件を加味した上で、自分が最も興味を惹かれたのが設計だった。図面を引き、間取りを計算し、模型で再現をして、コンスタントな修正とクライアントとの協議を重ねる。なるべく理想の形を実現できるよう、そこへさらに、できる限り自らの意匠を施せるよう、頭を悩ませ、手を動かし、持てる全ての知識とアイデアを注ぎ込む過程が、そうして完成した実物を目の辺りにした際の達成感が、自分を虜にするのだと。  必要部分、つまり私にとっても興味深いと感じられる箇所を要約すると、このような動機から現職を志し、無事に就くことが叶い、継続して成功を勝ち取り、今に至るらしい。  全く興味の無い話ではなかった。不要な部分も勿論あったけれど、聞いていて終始退屈したわけでもない。経緯や専門的な説明の他にも、それなりの人脈があり、自分が関わる方面へは顔が利くということも聞けた。いくつか有用そうな名前と地名、そして社名まで出たので、私はそれらを頭の中にメモした。 やはり、この人物は当たりだった。時間と手間を割くだけの価値があった。まあ、これは私の観察眼が優秀であることの証左でもあるのだけれど。  こうした自分語りには自慢話がつきものであり、その中には、女性には難しいかもしれない、女性が参入したがるようなものではないよね、向き不向きというものがあるからね、といった、ごく自然にこちらを、ひいては女性を軽んじていると見受けられる言葉が散見される。総合的な評価を下すなら、決して満点ではない。とにかく、モラルとデリカシーに欠ける。どちらかといえば赤点に近い。それでも私が口を出さず、軽快に頷き、笑みを絶やすこともなく、要所で反応をみせて彼の機嫌を取り、話が完全に終わるまで続けさせたのは、大人しく聞き手に徹している方が、相手を程よく興奮状態に保ち、能率よく、今後役立つかもしれない個人情報を収集することができるからである。  情報というものは、得ようと近づき、獲得のためだと意気込んで行動すると、途端に逃げていく傾向がある。もしくは察知され、警戒され、隠されてしまう場合が多い。より確実に、できるだけ信憑性の高い、付加価値まで含有された情報を得るには、相手に取り入り、その対象の経歴から現時点までを、その各所に点在する要点を、対象自身の口から語らせることが最も有意義だ。思考も、感情も、一度勢いづいてしまえば取り繕うことは難しく、緩んだ口から零れる言葉には守秘が必要であったはずの真実も混ざる。ゆえに、直接会って話す、という非効率でリスキーな選択にも価値が見出されるのである。  私の場合は、加えてもう一つ、相手と直接会う理由と必要性があるけれど。 「そういえばさっき、芸術系の趣味を持っていると言ったよね」  ひとしきり語り終え、グラスに残っていたビールを一気に飲み干した後、彼は思い出したように言った。現に今、思い出したのだろう。 「具体的に、どういうものをやってるの? 何が好き?」 「お恥ずかしながら、私、絵を描くんです。油絵です」 「へえ、それはすごい。いや、素晴らしい趣味だね」彼は仰け反りながら言う。 「もしかして、画家くらい上手いとか? 描いた作品をコンテストとかに出したりしているの? 画廊に買い取ってもらって、もう値段が付いてたりとか」  彼の反応と言葉を受けて、私はこっそりとげんなりした。  どうしてすぐにお金の話へ結び付くのだろう。これだけでもう、彼にとって芸術とは、金銭が絡む下賤なもの、利益のための概念なのだと知れる。  芸術は本当に美しくて、手を触れるのもおこがましいと感じるほど高貴なものなのに。まったく分かっていない。さすがに少し腹が立った。 「いいえ、そんな高尚なものではありません。本当にプライベートとしてやっているもので、コンテストや、値段なんて、とても……人様にお見せできるほどのものではないんです」  私は苦笑いをしつつ、自分の顔の前で小さく手を振った。 「そっかぁ。でも、僕は一度見てみたいな。君の描いた絵」 「では、今度、写真に撮ってきますね」 「ホント? それは嬉しいな」 「特別ですよ? 他の方には内密でお願いしますね」  私は両手を合わせ、お祈りのポーズを作ってみせながら言う。 「分かった分かった」  彼は笑いながら頷く。次いで、片手を上げてウェイターさんを呼び、ビールのおかわりを頼んだ。 「しかし、絵を描くとはね。意外も意外だったよ。しかも油絵だから、結構、本格的なわけだろう? 今時、本当に珍しい。羨ましいとさえ思える趣味だ」 「絵は、描かれたりしませんか?」  答えが分かっていることを、あえて聞いた。単なる会話の繋ぎだ。色のある返しなんて期待していない。 「残念ながら、ないね。描く機会もないし、そういった方面への創作意欲もない」  彼は笑いながら首を横に振る。 「仕事柄、デザインや配色には頻繁に携わるけど、あれは絵とは呼べないしね。あくまでも仕事だ。個人的には芸術に近しいものだと感じているけれど、本来の芸術と呼ばれるジャンルとは、また少し違うだろう」 「う~ん、どうでしょう」私は首を傾げながら応じる。 「ものを創る、つまり創作という点では、建築も芸術と同義ではないかと、私は捉えています。創作に向ける情熱、熱量、集中力、構想と実現、探求と苦悩、そういった部分は、世の他業種とは少しばかり、けれどやっぱり、異なるものではないかと思うんです」 「ああ、貴女はやはり、素晴らしい女性だな」  彼は口角を上げて、私を褒める。 「幅が広く、それなりに深い知識を持っていて、それをきちんと活かせている。高い教養に加えて、潤沢な経験を、きっと積んだのだろう。話していると、それが伝わってくる。私がこれまでお会いしたどの女性より素敵だ」 「あら、これ以上お褒め頂いても、私、何も返せませんよ」  笑いながら応じる。  そろそろだ、と予感を抱きつつ。 「ああ、でも、そうだね、僕は、絵画には明るくないんだけど、あの良さというか、芸術性を感じる、という感覚自体は理解できるよ。理解できるようになってきた、というのが正しいかな。それこそ、歳を重ねてからだね。若い頃は見向きもしなかった方面の魅力にも、きちんと触れられるようになってきた、という段階でね。色々と、ものや歴史を知ってからは、絵画や彫刻や、特定の記念建造物が、どうしてこれほどもてはやされるのかを理解したんだ」 「あら、それって、つまり?」  私は笑みを浮かべて先を促す。思惑が透けてみえる。ゆえに、先回りするのは簡単。 「次に会う時は、美術館へ行こう。どうだろう? また会ってくれるかな?」 「ええ、勿論。場所が美術館なら尚更に。私、美術館、大好きなんです。あそこで絵画を眺められるなら、何時間でもいられます」 「そうか。いや、よかった。断られてしまったら、どうしようかと。ああ、安心したよ」  彼は笑いながら数度頷いた。美術館のことなんて既に頭にないらしい。それはそうでしょうね。私の興味を引こうとする、単なる誘い文句でしかないのだから。 「お断りなんて、とんでもない。私、今日はお会いできて本当によかったと感じているのですよ」 「それ、本当ですか?」  彼が目を見開く。  そう。  これだ。  ここから。  そして、あと少し。 「ええ、本当です」  私は、ゆっくりと頷いてみせる。 「それは、その、不躾で申し訳ないが、率直に聞きたいのですが、僕に気がある、ということでいいのですかな?」  やや前のめりになった彼の姿勢と、完全に崩れてしまっている敬語、そして話し方が滑稽で愉快。 「お恥ずかしながら、はい、そう受け取っていただいて間違いありません」  私は口元に笑みを形作って応える。この笑みは、ふき出してしまいそうな自分を抑制して、それでも溢れてしまう可笑しさによって形成されている。つまり、笑いをこらえているだけ。 「私からも、お聞きしてよろしいでしょうか?」 「はいはい、なんでもどうぞ」彼が即座に応える。 「私という人間は、貴方の【御眼鏡に適いました】でしょうか?」 「ええ、それはもう、勿論です。先程も申し上げた通り、貴女は僕がこれまでお会いしたどの女性よりも素敵で、魅力に溢れる方です。これからも是非、末永いお付き合いをしたいと考えています」  そこまでは聞いていない、という感想はさておき。  第一、完了。 「では、もう少し、踏み込んだ聞き方をしても、よろしい?」  私もテーブルに上体を寄せて、彼へと近づく。  この動きに反応して、彼も私に近づく。  生理的に無理だな、と苦笑い。  だけど、それも、もう少しの我慢。 「貴方は、これまでの【人生に満足】なさっていますか?」 「それは、ええっと、そうですね。それはそうです。悪くはない。上手くやってきたと思っていますよ」  これで、第二。 「けれど、まだ、満足できていない? もの足りないのね?」  私はくすくすと笑いながら問う。この笑い方は少し難しい。加減を間違えると嫌味に取られてしまう。 「ええ、そうです」彼は頷く。 「当てて差し上げましょう。不足しているのは、ずばり女性ですね? 【奥様が欲しい】。どうですか?」 「実は、そうです。それがあれば、完璧ですね。後悔のない人生になります」  彼は笑って、馬鹿正直に答えた。  下卑た笑み。生涯を通し、決して相容れないと断言できる下心。  そうした悪しき概念とも、ようやくお別れ。  第三、完了。 「今度は僕が、台詞を取られてしまいましたね」彼が言う。 「ええ、取ってしまいました。ごめんなさい」私は応える。  大丈夫よ。  気になさらないで。  もっと重要で、もっと価値あるものを、これから頂くのだから。 「ねえ、もっと聞いても、今まで以上を、答えてくれる?」  最初で最後の上目遣い。  彼の視線は、こちらへ釘付け。  意識も、思考も、感情も。  あらゆるものが、私へと向く。  これが狙い。必要だから。  これで、第四。 「私のこと、好き?」 「それは……その、はい。はい、そうです。僕は、貴女が好きだ」  彼が頷く。  はい。  捕った。  畳み掛ける。 「私に、【貴方の全て】をくださる?」  どう?  間が空く?  視線の先。  時間の先。  たった一秒の逡巡だった。 「勿論です」  肯定。  第五.  完了。  あぁ。  無様。  嗚呼。  愚か。  途端。  彼の身体が硬直して。  こうべが垂れる。  糸の切れた人形のよう。 「ありがとう、嬉しいわ」  私は告げる。  この言葉だけが、いつも届かない。  感謝を伝える段階では、どうしてもその相手は意識がないから。  私は前のめりになっていた上体を戻して、綺麗に着席。  息を吐いて、ゆっくりと吸って、そう、深呼吸。  ちょっとだけ疲れた。  もう慣れたものとはいえ、多少は集中力を使うし、気も遣う。一つでもしくじってしまったら台無しになってしまうし、ここに至るまでの労力を考えると、つまり思い出してしまうと、その瞬間が、ドッと疲れる。記憶が溜まっている。積み重ねたからこそ此処に居る。だからこその私が在る。  テーブルに視線を落とす。  まだもう少しだけ残ったお料理と、一口分の白ワイン。  ナイフとフォークを手にして、白身を自分の口へと運ぶ。  美味しい。  先程までよりも、ずっと。  このシチュエーションが好き。  静かなのがいい。  海の支配。  潮が魅せる。  適した陽の明かり。  ささやかな波の音。  穏やかな風。僅かに浮く私の髪。  黒よりも白。白よりも青。美しい方へと。  生命だったものを突き刺して、自らの口へ。  食べ終えて、締める清いアルコールも。  全てが素敵に感じられる。  雑音がないだけで、自由であるだけで。  世界はこれほどまでに違って映る。  グラスを片手に持ったまま、それで口元を隠したまま。  私は周囲へ視線を巡らせる。  近い場所の席には誰もいない。最初に席に着いた時から、このテーブル以外に客はいなかった。ウッドデッキ部分は占有している状態。  私が上がってきた階段付近にも視線を向ける。そちらには客がいるけれど、こちらを向いていない。ウェイターさんもいない。誰もこちらを見ていない。  ありがとう。  御都合だわ。  好都合でもある。  私はグラスをテーブルに置きながら。  ごく自然な動作で。  項垂れている彼の頭をはたいた。  その瞬間、彼の口から飛び出してくるものがあった。  さて。  今回は何が出てくるかしら?  一瞬だけ、わざと目を閉じて。  ゆっくりと開けて。  それを見た。  眺める。  手に取る。  数える。  溜息。  当たりといえば当たり。  妥当といえば妥当。  彼の中から出てきたのは、札束だった。  枚数にして百枚。つまり百万円。  実に実用的で、実に彼らしい【中身】だった。  手間と時間をかけた見返りとしては充分。けして外れではない。一番酷い時は雑巾だった。あれほどの衝撃ではないし、いらない、棄てよう、などもあり得ない。悪くはないのだ。  しかし、それでも、良い意味で期待を裏切られない、という現実はやはり、つまらない。  以前に一度だけ、とっても簡単に言葉を、態度を、引き出せた相手から、大きな金塊が飛び出したことがあった。あのような予想外を私は欲しているのだろう。一度でも大当たりを経験してしまうと、並か、その少し上くらいの当たり程度では満足できなくなってしまうもの。人間の欲深さ、心理のままならなさ、といったところ。  持参していた黒いハンドバックに札束を入れて閉じたところで、ウェイターさんがブラックビールを運んできた。 「大変遅くなってしまい、申し訳ありません。あの、ご注文されたお連れ様は……」  若いウェイターの彼は、項垂れる人の形をした空の箱をちらちらと見ながら、困惑した表情で私に問う。 「ああ、大丈夫です。彼、少しうとうとしてしまっているだけですから。ビールは私が頂きますね」  そう答えてから、私はビールのグラスを受け取る。  ウェイターさんが立ち去った後、私はグラスの中身を一気に飲み干す。  ハンドバックを開け、中から三万円を取り出してテーブルに置き、風で飛ばないように空いたばかりのグラスを置いて押さえる。 「では、ごきげんよう」  私は物言わぬ状態となった彼へ向けて別れの言葉と、そして片手を振ってみせてから立ち上がり、その席を、レストランを、後にした。  お料理の味と、海の感触だけが、綺麗な想い出だった。          *  日傘を片手に、私は歩道を進む。紫外線が気になるほどに快晴。  スマートフォンの画面をちらと見る。土曜日の午後。時刻は十三時四十五分。目的地は、もう目の前。  今回は、私の住んでいるマンションから比較的近い。だからどうということはないのだけれど、とりあえず前回のような、約束の時間に遅れる、というアクシデントは避けられる。電車やタクシーに乗る必要がなく、予想外の遅延を考慮しなくていい。  遅刻は総じて相手の機嫌を損ねるもの。前の相手が酔っていて、気前よく許してくれたに過ぎない。理由が何であれ、事情がどうであれ、約束の時間よりも前に着いている方が、何事においても、どのような肩書きであっても、社会的には好まれるし、また常識だと断じられる。  前、前、前、と言葉が重なった。その事実を頭の中で反芻する。  あまり意味のない連想だ。さして重要でもない。特筆することでもない。  ただ、ほんの二十日前に会った相手の顔を思い出そうとして、できないな、と気づいただけ。  驚くほどにさっぱりと、記憶に残っていない。それくらい自分にとっては些末なことで、取るに足らない、至極どうでもいい相手だった、ということか。  まあ、それはそう。相手はどうだっていい。誰だっていい。重要なのは中身だけ。  何が出てくるのか、一体何が、次は何が、その場で飛び跳ねてしまうほどの大当たりか、目を見開いて愕然とするほどの大はずれか、そのどちらであったとしても、それが私のものになる。大切なのは、それだけ。それだけが事実で、私はもう、それにしか興味がない。  自分の歩調に比例して建物が迫る。  その規模と物理的な高度に、私は大きく瞬きをしてから立ち止まった。  顎を持ち上げ、日傘を避けて、はるか上層を見上げる。眺めてみたくなったから。  敷地面積もさることながら、構造的には空へ向けて長く、文字通り高い。建物部分は一見して四角い。その几帳面さは私好み。基礎となる土台箇所は濃いブラウン、そこから上までは薄いベージュ。派手な配色ではない。それが上品さを纏い、高級さを際立たせている。  ここが、今日の待ち合わせ場所。正確には、このホテルの一階にあるラウンジ内。  前を向き、私は再び歩き出す。  すぐにホテルの入口に着く。日傘をたたみ、スマートフォンはハンドバッグの中へ。前髪を手櫛で直しながら近づく。ドアマンが扉を開けてくれた。  中へと入り、歩きながら左右を確認。ラウンジのある方へ向きを変えて足を進める。  黒と金色を基調とした、センスの良いカウンターが見えてくる。その内側に立っている従業員と思しき人は三人。それとは別に、ウェイターさんが二人か三人、各テーブルの合間を動いている。人の数と動きは把握しておいた方がいい。特に私の場合は。  フロアの最奥は壁ではなく、区切られた巨大な硝子張りの壁面。それが等間隔に並ぶ。硝子の向こうには整えられた人工的な緑が映る。区画内の天井には、独特な形状の大きなシャンデリアがぶら下がっている。面白いデザインだとは思うけれど、美しいとは感じられない、そんな行先不透明な感情を想起させることには成功しているオブジェ。  ラウンジフロアの中間辺りまで進んだところで、相手の男性を見つけた。というか、悪い意味で、目を引く理由があった。  むこうも丁度、私に視線を向けたところで、軽く片手を上げて挨拶をしてきた。 「初めまして。本日はお忙しいところ、お時間を頂き、ありがとうございます」  彼が座る席に近づいて、こちらの第一声。  作った声色。淑やかに映るよう調整した表情と、角度を把握した私のお辞儀。揃えた手と足先。これらは全て自分事のはずなのに、どうにも他人事のように捉えているのも、また自分自身である、という矛盾。  善し悪しはともかく、我ながら慣れたものだ。飽きるほどの繰り返し。スマートフォンで行う、コピーアンドペーストのよう。 「いえいえ、こちらこそ、お会いできて非常に嬉しいです。素敵なお召し物ですね。とてもお似合いだ」  相手の男性は爽やかな笑みと、私のファッションへの褒め言葉で出迎えてくれた。  今日はグレーのカーディガンに白のインナーを着てきた。爽やかな陽気と日傘に合う用の配色と組み合せ。下は黒のロングスカート。生地は軽めで、先端がふわりと開いたデザイン。足下は軽めのパンプス。歩く距離が短いからこその選択肢。 「ありがとうございます。そう言っていただけると、とても嬉しいです」  私は笑顔で応えつつ、小さくスカートをつまんで持ち上げてみせる。 「女性のスカート姿は、お好きですか? 私、ロングスカートがとっても好きで」 「ええ、好きですよ。貴女のスカート姿は特に好ましい」  彼は頷き、爽やかな笑みを浮かべて答えた。回答の中身には、疑問を抱かざるを得ないけれど。  しかし、おかげでタイプが割れた。分かりやすい性格をしていそうで助かる。こちらへの当たりも強くなさそうで、まずはひと安心。駆け引きを仕掛けてくるような、もしくは警戒心の強い相手の場合だったなら要注意である。下手に相手の頭が切れると、こちらとしては非常にやりづらくなる。  逆にやり易いのは直情型か、自分の欲に正直な系統の男性、女性に免疫のない男性である。これらは落とすのが非常に簡単で、必要なワードと態度を引き出すのにも、まったく苦労しない。眼光だけでコンクリートに穴が開きそうなほど粘質な視線と、距離が空いていてもこちらへ届いてしまいそうなほどの鼻息には辟易するけれど、その向こうで私を待っている御褒美のためとあらば、息を吐いて頑張り、その瞬間まで耐えられるというもの。  白い丸テーブルを挟んで座る。独り掛けソファは薄い緑色。座面は柔らかくて心地が良い。背もたれが程良く堅くて私好み。これ、個人的に欲しいな、と発想した。  絶妙なタイミングでウェイターさんがきてくれて、お飲み物は、どうなさいますか? と聞かれたので、私はブラックコーヒーを頼んだ。彼は何も頼まなかった。彼の前には既に白いカップがある。中身は紅茶のようだ。  コーヒーはブラックで飲めるけれど、私は紅茶が飲めない。匂いと舌触りが苦手なのだと自己分析している。紅茶の方が似合うのに不思議だね、とよく言われる。そう言われても、飲めないのだから仕方がない。  いくつかの細やかなやり取りから始まる。これもいつも通り。  どこかで似たようなことを話したな、と感じる言葉の往復。  ウェイターさんが運んできてくれたコーヒーのカップを手に取り、一口飲んで、一息ついて、それでも、そのまま、変わりなく、滞りなく、繋いで、繋げていく。現に今、私はまったく別のことを考えながら口を動かしている。目の前の相手へ、大して考えずにものを言い、投げかけられた質問に笑みを張り付けた顔を向けて答える。まったく呆れるほどに我ながら器用だなと思うばかり。そして失礼だなと、心の中で独り笑い。  対して私の目は、身振り手振りを交えて自己を懸命に表現する最中な彼を、真面目に観察している。この過程だけは手を抜かない。私の身体も、重要だと解しているのだろう。ありがたい条件反射である。  年齢は四十くらいか。太っては全然いない。どちらかといえば痩せ型。彼も私も座っているため、正確に測ることは難しいけど、概算では、私よりも身長は低そう。男性にしては色白。所々白髪が混じっているけれど、髪はまだまだ豊か。ノンフレームの眼鏡をかけている。その影響か、そもそもの顔の印象からか、私の頭に猛禽類を連想させる。  ここからが大問題で、着ているスーツは上下とも紫色がベースで、そこへ縦のラインが入ったもの。センスが悪いを通り越して、ファッションが多重事故を起したのだろうかと心配になる。ブランド自体は私も知っている高級なものなのだけど、そういうことではない。こういった危機的格好に陥っている相手とは、並んで外を歩きたくないな、と思う。私にも人権はあるのだ。左手首に巻いた腕時計はロレックス。ただし色は金色で、蛍光ブルーの装飾が追加されたもの。どうして普通のシルバーにしなかったの? と聞いてみたい衝動に駆られる。どの指にも指輪は見当たらない。今回ばかりは、それはそうだろう、という感想しかない。そんな見方をしては失礼ではないか、などと言っている場合ではない。あとは些細なことだけど、彼の胸ポケットから万年筆が飛び出しているのが気になった。だからどうということもなく、何か困ることもないので、特に指摘することはしなかった。 「いやぁ、それにしても、このような席を設けていただけるなんて、想像もしていませんでした」  彼は紅茶のカップを片手で持ち上げたまま、私を見て言った。 「それは、ええ、私もです」  私は背筋を伸ばし、絶妙な角度に自分の頭を調整しながら応じる。お恥ずかしながら、の動作版である。 「紹介で、というお話でしたよね? 事務所繋がりでの」 「はい。その通りです」  私は頷き、頭の中のメモにある建築事務所名と関連する人物の名前を、さも関係者のように自然な口調で告げる。  目の前の彼はそれを聞き、ああ、はいはい、やっぱり、そうですね、いやぁ、それはそれは、と何度も頷き、納得した様子をみせた。本当に分かりやすくて助かる。必要以上に頭を使わなくていいので楽。 「貴女が就かれているお仕事も、建築関係ですか? 注文住宅の設計や、あとは、外観のデザインとか」 「いえ、私はまったく畑違いの仕事をしております。こうしてお会いできたのは、本当に偶然といいますか、お付き合いのあった方々からの縁、といったものです」 「はあ、そうでしたか。では尚更に、幸運でした。こんな綺麗な方とお会いできて、こうしてお話ができるなんて、人からの紹介というのも、馬鹿にならないものですね」  彼の反応を見届けてから、私はコーヒーのカップを持ち上げて口元へ運び、一口飲んだ。美味しい。もうこれだけで、このラウンジが好きになった。自宅からも近い。また来よう。 「建築や設計の関係ではないとなると、では、どのようなお仕事をなさっているのですか?」  先程と変わりなく、紅茶のカップを片手で持ち上げた姿勢のまま、しかし同じ話題での追撃がきた。これは少々意外。  外見の突飛さとは裏腹に、意外と仕事人間なのかもしれない。もしくは肩書きを重視する傾向があるのか。まあ、どちらでも問題はない。こうした場面も初めてではない。それよりも、持ち上げたままで一向に飲まれない紅茶の方が気になる。あのままでは、紅茶が可哀想。 「はい。私は、ウェディングプランナーをしております」  私はゆっくりとした動作でカップをテーブルへと置きつつ、頭の中に留めてある事前知識を完備した嘘の職業その一つを告げた。必要になったら、それ用の偽造名刺も、持参したハンドバッグ内に用意がある。 「へえ、それはすごい」彼が大袈裟に仰け反りながら応える。 「恥ずかしながら、僕はその方面には、あまり詳しくないのですが、それでも、ええ、格好良い肩書きですね」  予想通り、肩書きを気にするタイプだったらしい。ここまで露骨に答え合わせができるのもまた珍しい。 「ウェディング関係となりますと、どうですか。儲かりますか? たとえば、この時期はどうです? お忙しいですか?」 「いえ、そうでもありません。お客様の意向にもよりますが、春は学生さんの進学や卒業、新社会人になります方々が多く、式のご予定を組むには、やや不向きな傾向があります。御親戚、御友人様方をご招待することが難しくなる、というのが理由です。この業界の繁盛期といいますと、六月か、最近ではハロウィンの時期か、クリスマスが近くなる年末が主です」 「ああ、ああ、ええ、そうですね。うん、そうだ。ジューンブライドといいますし、あとは、記念日やイベント事に絡めた挙式が多いでしょう」  私の返答に対して、彼は笑みを顔に張り付けつつも、早口で自分の言葉を添えた。  あぁ、プライドも高いタイプか、と内心、眉を顰める。若干、面倒臭い手合いだ。 「こんな私ですが、どうでしょう? 貴方の【御眼鏡に適い】まして?」 「は? えっ? 僕の?」  私の唐突な問いに、彼は面食らったようだ。それはそうだろう。これはいつもの手堅いやり方ではない。多少リスキーで強引な、面倒だなと感じた手合いへのカウンター、変則的な攻め方である。 「具体的にお聞きすると、私の顔は、貴方の好みではありませんでしたか? ということです」 「いえいえ、決してそんなことはありません。そんなことは微塵も思っていませんよ。貴女は綺麗な方だ。誤解を恐れずにお伝えすると、とても美しい。美人です」  ほら、効いた。  近づいたし、近づけた。  でも、まだ弱い。肯定が薄い。 「私、変わっておりますでしょう? 就いている仕事も、この性格も」 「それは、ええ、正直、そう思いました。でも、就かれているお仕事は素晴らしいと思いますよ。立派なお仕事です。貴女に似合ってもいる」  あと少し。  もう少し。 「私みたいな変わり者の女は、お嫌い?」  悪戯っぽい表情を作り、彼へと向ける。 「いいえ、いいえ、とんでもない。むしろ嫌いどころか、その、好きですよ。いや、すごいなと感心しています。こんな押され方も、切り返しも、初めて驚いています。いやぁ、本当にすごい」  幾度も瞬きをしながら、彼はずっと手にしていた紅茶のカップをテーブル上に置いた。あれだけ長く持っていたのに飲まないの? 意味が分からない。  とにもかくにも、これで第一、完了。  上手くいったことに、自分でも満足。 「私自身、普通では、つまらないと感じ、また考える質でして……」  コーヒーのカップを持ち上げて、一口飲んで、テーブルへ戻す。  その動作の各所で、私は言葉を発する。  相手を焦らす。こちらへ引き込む。そのための動作と溜め。 「こんな難儀な性格なものですから、年齢を重ねて、時間が進んで、人生が進んで、そうするうちに、今まで以上に、思い返し、自分自身へ問う機会が増えますの」 「何をです?」彼が聞く。 「自分の【人生に満足している】か、どうか」私は答える。 「貴方は、どうですか? ここで、自分の人生を振り返ってみて、完成したと断言できますでしょうか? でも、お仕事では大きな成果を出されたからこそ、成功を収められたからこその今でしょう?」 「それは、ええ、そうですね。僕は成功者です。そう自負しています。その点では曇りなく、正々堂々と誇れますよ。他でもない僕自身の、積み重ねてきた努力の成果です」  彼は頷き、長々と唱えて言い切った。誰もそこまで聞いていない。  だけど、ありがとう。  第二も完了。恐ろしいほどに順調。 「それにしても、なんというか貴女は、気品がありますね。気高いというか、迫力すら感じますよ。こう言っては失礼かもしれませんが、今時珍しいタイプの女性だ」  再びカップを手に取りつつ、彼が言った。 「家柄のせいかもかもしれません。幼少の頃から、古い考え方と風習を叩き込まれましたので」  私は微笑みながら答える。 「ああ、そういう御家柄、というやつですか?」 「ええ、そういう御家柄の出なんです、私」  私は頷き、肯定してみせる。実際のところは嘘八百。 「高校生までは特に、それが顕著でした。私、長く茶道をしておりましたのよ」 「えっ? 茶道を? そうなのですか?」  彼が驚いた表情で聞き返してくる。 「似合いませんか?」  小さく首を傾げながら、私も聞き返してみせる。 「いえいえ、とんでもない。イメージ通りというか、うん、ストレートにお伝えすると、非常に似合いますね。お似合いです。そうだ、和服を着た姿などをお目にかかりたいと思います」 「あぁ、そうですね。洋服を着て、茶道のお話をしては、印象も変わってしまいますね」  私はくすくすと笑いながら言葉を続ける。 「今ご覧になっている私とは、やはり違って映るでしょう。私、和服や畳が、あとは日本庭園なども好きなのです。そういった古風で日本らしい魅力が、しかし最近では、めっきり数を減らしてしまっておりますでしょう? 個人的には、残念に感じるところです」 「そうですね。見かけることは、ほとんどありませんね。特に都会では、まずない」彼が頷く。 「これは内緒なのですが……堅苦しい御家の方針や規律などは、私、あまり好きではありませんでした。早く家を出て、自立をして、自由に生きたかった。けれど、そういった環境で育ったことで培われたものがどうしても、今の私を形作っているのです」  私の言葉に、彼が首を傾げる。こだわりが強い割に察しが悪い。やはり、プライドの高さと優秀さは別物なのだ。 「こんな変わり者で、妙な部分だけ古風な女が、例えば【貴方の奥様になります】と立候補したなら、どうでしょう? どう思われますか?」 「え? 僕のですか? それは、つまり……」  彼は素直に驚き、硬直する。いい加減、その持っているだけの紅茶のカップを解放してあげて欲しい。 「はい、そういうことですわ」私は頷く。 「それは、ええと、大変光栄ではあるのですが、なにぶん些か、急ではありませんか? 事実、僕はかなり驚いていますよ」 「そうなのですか? 私では不足でしょうか?」  自分の眉を八の字に下げて、彼に見せつける。 「ああ、そんな、いえ、不足というわけではなくてですね。そういうことではなくて……」  私は上半身を伸ばし。  テーブルに手をつき。  身を乗り出して。  彼の方へ。  そこから。  手を伸ばして。  カップを持つ、彼の手に触れる。 「えっ? あの……」  動揺している彼。  震えが伝播してくる。  緊張か、それとも恐怖か。  どちらでもいい。同じこと。  それは無視して、それらは流して。  可哀想な中身が零れないように。  ゆっくりと、テーブルへ誘導。  置いたなら、次いで。  彼の手を握る。  優しく、そっと。  彼の目を見つめる。  彼も、私を見ている。 「本日、私は、そのつもりで、ここへ参りました」  告げる。  嘘を。  偽りを。  何の為に?  誰の為に?  知れたこと。 「私を、貴方の奥様にして頂きたい。お返事は、すぐでなくて構いません。ですから……」  もう片方の手も伸ばして。  掴む。  包む。  彼の手を。  私の両手で。 「今日は、約束だけください。私を貴方の奥様にしてくださる、その第一候補である、という約束を。もし、私を受け入れてくださる気になったなら、【貴方の全てを私にくださっても良い】と想えたなら、私はすぐにでも応じます。私も貴方へ、私の全てを差し上げます。ですから、どうか……」  提案。  懇願。  誘導。  思惑。  対面。  正面。  視線と動揺。  目の奥にある逡巡。  意思に纏わりつかれた彼と。  意思で引き込もうとする私。  意思で隠された思考も。  理性などという傀儡も。  全て掌握している。  全てが既に手遅れ。  取り込んでいる。  私の魅力で。  光る。  陰る。  ほら。  もう。  すぐ。 「……ええ、分かりました」  彼は頷いた。  肯定。  次いで一押し。 「ねえ、聞いてもいい?」  私は問う。  今日一番フランクな口調で。  悪戯っぽい表情と、馬鹿みたいな上目遣いで。 「私のこと、好き?」  彼の瞬き。  私も瞬き。 「ええ、好きです」  捕った。  第三、第四、第五。  完了。  恐ろしいほどの怒涛。  愚かを通り越して謙虚ですらある。  これほどとは、そして、こんなにも上手くいくとは。  仕掛けた私の方が、どうしてだか、満たされていく。  ありがとう。 「ありがとう」  私は彼へ向けて、お礼を述べる。  これだけは、偽りなく、心から。  だけど、届かない。  この言葉だけが、いつも。  彼は力なく項垂れている。  沈黙した紫と、抜け殻になった人形のような生命の回帰。  まずは、握られなくなった彼の両手を、テーブルの下へ。  次いで私は、ハンドバッグの中から除菌シートを取り出して、自分の両手を拭く。  それを終え、シートをバッグへと仕舞ってから、ウェイターさんを呼んでコーヒーのおかわりをした。  項垂れている彼を、ウェイターさんはちらと横目で見たけれど、特に何も聞かず、私にだけ、ごゆっくりどうぞ、と言ってくれた。  私は優雅に頭を下げて応じ、その後、ひとり、ゆっくりと、コーヒーを愉しんだ。  美味しい。  本当に美味しい。  この苦みが好き。  温かいコーヒーも、冷たいコーヒーも、大好き。  この時間も好き。  落ち着けるひとりの時間と。  全てが好調で進み、ことを終えられた後の、この時間は、好き。  もっと簡単に、もっと確実に、利益を得られたらと考えないこともない。  けれど、多分私は、この一見複雑で面倒な、リスキーで、場合によっては不愉快を被るかもしれない手順を、愉しんでいる節がある。自分では、そう感じる。  私以外の皆も、これ以外の物事も、そう、何事であっても、同様かもしれない。  簡単ばかりではつまらない。すぐに飽きてしまう。一つ二つくらいの困難が絡むからこそ、顔をしかめたくなるような面倒さを乗り越えるからこそ、上手くいった際の高揚感が、達成感が、得られたという事実が、たまらないと喜べるのだ。  何を引き当てるか分からない、という不確かさもそう。同じこと。  例えるなら、虹色の箱、が適当だろうか。  カラフルで、鮮やかで、魅力的な、魔法の箱。  それに近づき、触れてみたなら、最後にはやはり、中身を確かめたくなる。  中身をもらえるのなら尚更に、確かめたくなる。開けたくなる。どの色が私のものになるのかしら? そんな想像をする。期待をする。わくわくする。  答えなんてどこにも書いていなくて、透かして見ることもできないからこそ。  不正なんてできなくて、自分にだけ都合良くとはいかないから、ままならないから、だからこそ惹かれる。魅せられている。私自身、逃れられなくなっている。それでいいと思っている。  考え、これまでを思い返して、そして、美味しいコーヒーを飲み終える。  テーブルにカップを置いて、流れるように周囲を確認。  近くには誰もいない。ウェイターさん達も、カウンターの方へと集まっている。絶好のタイミング。  私は再び彼の方へと身を乗り出して。  自分の目が引かれる。  飛び出したままの万年筆。  しばし考えて。  片手で、それをきちんとポケットへ差し直す。  その動作と並行して。  彼の頭をはたいた。  彼の口から飛び出すものがひとつ。  目の端で捉えた。  嗚呼。  あぁ。  ダメだ。  小さい。  最悪。  今回は、はずれかも。  それは小さな金属音を立てて、テーブルの上に落ちた。  私は席に座りつつ、それをつまんで、自分の眼前へと持ち上げ、観察する。  鍵だった。  銀色の鍵。  古くはない。新しくもない。  どこにでもありそうな、普通の鍵。家の鍵か、マンションの鍵か、その類のものにみえる。  長い溜息をつく。  本当に最悪だ。  一番酷かった時は雑巾だったけれど、あれの次に酷いものだと評価できる。  売れもしない。使えるわけがない。つまり、何の価値もない。  再び溜息が出そうになって、そこで、ふと気づいた。  鍵を触っているこの感触に、覚えがある。  何だろう? 手に馴染むというか、そう、この形を知っているような、そんな……。  まさか。  突飛な発想。  単なる思いつき。  それでも、確認する以外にない。  確かめなければ、だって、これは、こんなことって……。  私は自分のハンドバッグを開け、そこから鍵束を取り出して、彼の口から出てきた鍵と、ある鍵とを比較する。  間違いない。  同じものだ。  だけど、どうして?  どうしてこれが、あんなところから出てくるの?  分からない。  これまで、こんなことはなかった。  彼を見る。  項垂れている。  確かめようもない。  もう、何を聞くこともできない。  彼の口から出てきた鍵。  それは、私のマンションの鍵。  私の部屋の鍵だった。
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