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 その日、ケイタとユカは1ヶ月ぶりのデートをした帰りだった。病院での仕事終わりに無職のケイタと駅で落ちあい、それなりに味と雰囲気の良い居酒屋で二時間の食事をすませて、ホテルに行こうか部屋でしようかなどと考えながら夜道をぶらぶら歩いていた。三月終わりの夜の空気は、湿度が高くて生ぬるく、どこか澱んでいるように感じられた。 「雨降るのかなあ?」  ビール4杯ぶんのアルコールを血液の通り道に流しているユカは、自分の口から出る言葉が通常時よりもわずかにふわふわしている感じを覚えた。心なしか、肩にかけたA4サイズのレザートートバッグもふわふわ浮いているように感じる。緊急オペが入ったせいで昼食をとる暇もなかったので、弁当箱の中身がそのまま入っている状態にもかかわらず、彼女にはその重さが感じられなかった。  ケイタもユカも二人揃って傘を持ってきていない。天気いかんによっては、駅から離れたホテルを使わずに、どちらかの一人暮らしの部屋に帰ろうという言葉外の提案だった。 「それなら……」  ケイタは右の靴から踵を外した。ご機嫌に足を振りかぶる。 「明日、天気になー……」 「れ」と同時に、勢いよく靴を飛ばす。オールデンのコードヴァンが紺色の夜空に弧を描く。この靴はユカがわざわざケイタのために個人輸入でアメリカのショップから購入した18万円の短靴だ。 「ちょっと、それ、高いやつ」  ケイタはそのまま体勢を崩し尻もちをついた。彼のお気に入りの高級靴は、ぽてぽてと情けない音を立ててアスファルトに落下した。傷つきやすいコードヴァンのアッパーがしたになり、靴底を空に向けている。 「あ、雨だ」  それがまさか血の雨になるとは、そのときの二人には予想もついていなかった。 「雨だじゃないでしょ。だいじに扱わなきゃだめじゃない」  ユカが倒れるケイタの手を引っ張る。 「おっとっと……」  ハイボールを八杯飲んだケイタがふらふらと立ちあがる。転んだひょうしに右脚のズボンの裾が脛のうえまでめくれていた。 「ほら、ちゃんと靴履いて。せっかくの面接のための一張羅なんだから」  ユカは靴底を夜空に見せて転がるオールデンを拾いあげケイタの足もとに持っていった。ケイタはすべすべの靴を靴下ごしに足の先でなでている。 「雨降りそうだし、私の家に行こうか」  ユカの家はここから歩いて五分程度だ。今、二人の目のまえにある横断歩道を渡って住宅街のエリアに入ればすぐにつく。しかし、ケイタは非日常感を味わいたいため、行為のときにラブホテルを利用したがる。 「ちぇー。つまんねーの」  わざとらしく、履きかけたオールデンを蹴り飛ばした。存外に硬い。指の先に痛みが走る。 「ぎゃう」  ぴかぴか光る馬革の靴は、まっすぐに横断歩道の方に向かう。そこには、空き缶に刺さったユリの花が飾られていた。 「あっ」  その花にユカが気づくのとほとんど同時に、オールデンが空き缶にヒットした。人通りのない大通りに、からんころんと缶が倒れる音が響いた。 「ちょっと、なにやってるのよ! あれって事故のあとじゃない」  ユカが反射的に言葉を発した。これがバチ当たりな行為であることは、酔った頭でも理解できる。倒れた空き缶に視線を送った。そこで彼女は異常なものを見た。空き缶が地面のうえを時計の針ようにぐるぐる回っている。それもすさまじい勢いで。
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