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俺は小説家だ。
小説家って言うのは物語を創作して、それを売る仕事だ。
そういう小説家という職種の中で俺はホラーというジャンルの作家に属している。
属していると言っても何かそういう団体があるわけではない。
俺が書く物語がホラーをテーマとした作品だということだ。
ホラーとは何か。
これは実に難しい問題だ。
なぜなら恐怖という感情は万民で共通するものではないからだ。
たとえば「死」というもの。これは多くの人が恐れるが、中には死を恐れない者もいる。
そういうヤツは、この世に生まれた者はみないずれは死ぬものだなどと飄々としている。
痛みというものもそうだ。
社会的な羞恥、差別、迫害、そうしたものも気にしないヤツには恐怖にならない。
暗闇も猛獣も幽霊もそうだ。
ホラーというものが何なのか。
俺はそれがわからないままで、これまでいろいろ書いてきた。
そして、それはそこそこに結果が得られており、俺はホラー小説界隈ではそれなりに名の通った作家になっていた。
担当の編集者がついており、年に二、三冊の本を出版すれば、書店で「話題の新刊」などと推挙されて店頭に並ぶ。
しかし、実のところ自分のこれまでの作品のどれひとつとして俺には恐怖でもなんでもなかった。
異形の化け物が人を襲おうと悪魔のような男が善良な主人公を貶めようと某国からミサイルが飛んでこようとどうでもいい話だ。何も怖いことはない。
ただ、世間一般として恐怖とされているものをそれっぽいテイストで書き綴っているに過ぎない。
このことを俺の作品を好むファンたちは知らない。そんなことを公衆に向かって吐露したら興ざめだ。
そんな俺の本心を知っている者が一人だけいる。俺の担当の編集者だ。
「斎賀あかり」というのだが、俺は「斎賀くん」と呼んでいる。
クールな女性で、それなりに社会的地位のある俺に対してもまったく物怖じしない物言いをしてくる。
彼女は実に有能な編集者で俺の作品に対しても厳しい批評を浴びせてくるが、それが実に的確でいつも納得感しかない。
俺の作品がこれほどまでに売れているのは俺の文才だけではなく、彼女の批評によるものが大きい。
そんな斎賀くんが、俺の家にやってきた。
いつもはビデオチャットやメールなどでやりとりをしており、それで充分だったため、彼女の来訪は少し意外だった。
「今日はどうしたんだい?」
俺が尋ねると、斎賀くんは言いづらそうにモジモジとした。
「あっ……えっと……実は先生に相談がありまして」
「メールやチャットでは話せないことかい? まぁいいや。玄関での立ち話もなんだからまずはあがりたまえよ」
俺は斎賀くんをリビングに通すと、ドリップコーヒーを淹れた。お湯があればすぐに珈琲が飲める。このドリップコーヒーというヤツは実に便利だ。
「さて、早速だが話を聞こうじゃないか」
俺が促すと斎賀くんはゆっくりと一語一語を選ぶように語り出した。
「あの……信じられないかもしれないですけど、幽霊が現れまして」
「なんだって? 相談というのはホラーな話かい?」
「はい……」
怯えるような青ざめた斎賀くんには申し訳ないが、俺は踊り出したくなるような気持ちだった。
何しろフィクションではない、本当のホラー体験をした人が目の前にいるのだ。
しかもそれが気心の知れた斎賀くんならなおさらのことだ。
「それで? 幽霊ってのはどんな形だい? やっぱり夜に枕元に現れるのかい?」
「いえ……夜に限らずずっといます」
「ほうほう、気のせいではないよね?」
「寝不足だったり変な幻覚を見るような違法な薬も飲んでいません。でも、その幽霊がはっきりと見えるんです」
「夜に限らずずっといる……ということは今もかな?」
俺の質問に斎賀くんは戸惑ったように視線を泳がせた。
「はい……」
俺はうんうんと頷いた。
確かに妙な気配を感じる。よくはわからないが斎賀くんの視線からすると俺の後方あたりか。
直接自分の目で見て確かめたい衝動に駆られたが、幽霊を見るのに振り返って見てはいけないと聞く。
俺は席を立って斎賀くんの背後に立った。
「先生?」
俺の突然の行動に訝しげな声を漏らした斎賀くんの肩をそっと叩く。
「安心したまえ。斎賀くんの言葉は信じてるよ。俺も同じものを見てみたいと思ってね」
そう言って斎賀くんの肩越しに先ほどまで俺が座っていた椅子の奥に視線を向ける。
「斎賀くん、幽霊はまだ同じ場所にいるかい?」
「やっぱり先生はわからないのですね」
斎賀くんは気落ちした声で言った。
彼女の言う通り、俺の目には見慣れた部屋の景色しか映らなかった。
「うーん……残念だ」
思わず唸ってそう呟いた瞬間、ポケットに入れていたスマホが着信を伝える呼び出し音を鳴らした。
反射的にスマホを手に取って画面を見る。
その瞬間、ぞわりと全身に鳥肌が立った。
「どうしました? 先生?」
前方を見たままの斎賀くんが問いかけてきた。
いや、バカな。
「電話に出ていただいてよろしいですよ?」
「……」
斎賀くんに促されて、俺はおそるおそる通話ボタンを押して、スマホをそっと耳に押し当てた。
「はい……」
俺が出たのを確認して、電話をかけてきた相手が話しかけてきた。
「先生、お疲れさまです。斎賀です」
どういうことなのか。電話の相手は今、目の前に座っているはずの斎賀くんだ。
俺に背を向けて座っている斎賀くんと電話をかけてきた斎賀くん。どちらかが偽物だ。
「急にお電話してしまってすみません。先日いただいた原稿について確認したいことがありまして」
「斎賀くん。つかぬ事を尋ねるが、キミは今どこにいるんだい?」
俺はわざと目の前の座っている斎賀くんに聞こえるように電話相手の名前を呼んでみせた。
本物なら名前を呼ばれて何らかの反応をするはずだ。
しかし、目の前の斎賀くんはまったく微動だにしない。
「編集部のオフィスにいますよ。あ、今は、ご自宅ですか? ビデオチャットにしましょうか?」
「いや……このままでいい」
俺は陰鬱な気持ちでスマホを持ち直した。
電話の向こうの話し方や雰囲気は紛うこと無きいつも通りの斎賀くんだ。
一方、目の前にいる斎賀くんは明らかにいつもとは違う。
よく考えれば、斎賀くんが事前に何の連絡も無しで自宅に来訪するなんてあり得ない。
俺はなぜ何の疑問も抱かずにこの斎賀くんを受け入れたのか。
「それで、十二ページの杏子が恵助の手を取って走り出すところのシーンなのですが……先生……?」
電話の向こうの斎賀くんが俺に問いかけてきた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ。大丈夫だ。聞いてるよ」
俺が答えると電話の向こうの斎賀くんが小さな声で「あっ」と言った。
「もしかして、体調悪いですか? 先生、今回も相当ご無理されていましたよね!」
電話の向こうの斎賀くんも何かを察したらしい。俺とは違う察しだと思うが。
「構わないから続けてくれ。十二ページのシーンだよね。あそこは俺も少し気になっていたところなんだ」
俺の言葉に斎賀くんはホッとしたような感じで話しを続けた。
それから十分以上は話し続けていたと思う。
その間、目の前に座っている斎賀くんは俺に背を向けたまま、まるで人形のように微動だにしなかった。
明らかな違和感。
俺の額にじわりと脂汗が滲む。
この感じ。チリチリとするようなヤバい感覚。これはホラー展開か?
無意識のうちにこの後の展開を考えてしまう。
今は後ろ髪しか見えていない目の前の斎賀くんの首がキリキリと百八十度回転し、俺と目が合ってニヤリと笑う。
悪魔が隠していた正体を現す。
突然スッと姿が消えて、何事もなかったかのように椅子だけが残り、床までぐっしょりと濡れている。
うん、どれもありきたりだがいい。いかにもホラーだ。
そんなことを考えながら電話の向こうの斎賀くんに意識を向け直す。
「だいたいわかった。十二ページから先を少し書き直すことにする。明日まで待ってくれないか? 急いで書き直すよ」
「わかりました。締め切りは過ぎていますがなんとか調整します。では、よろしくお願いいたします。ご無理を言ってすみません」
「いや、いつも的確な指摘をくれて助かるよ。じゃあ」
俺は会話を終了し、通話を切った。
さて、ここからは目の前のホラーと向き合わなければならない時間だ。
「待たせたね」
俺が言うと、人形のようだった目の前の斎賀くんがスイッチを入れたように生気を取り戻した。
「今のお電話は私からですか?」
自分からの電話ですかと聞くのはおかしい。
偽物で確定だろう。
さて、そうなるとこの目の前の斎賀くんは誰なのか。いや、何なのか?
「電話の相手は斎賀くんだった。つまり君は斎賀くんではない、そういうことでいいかい?」
俺の問いかけに斎賀くん(一応、まだ正体がわからないので斎賀くんと呼ぶことにする)が、首を左右に振った。
「いいえ、私は斎賀あかりです」
その返答に俺は些か困惑する。
オフィスで仕事をしている斎賀あかり本人と話をしていたのを知っており、その上でなお自分は斎賀あかりだと言う。
どういうことか。
容姿まで瓜二つ、声も同じ。単なる同姓同名というわけでもあるまい。
平行世界からやってきたもう一人の斎賀くん、いや、それではホラーではなくSFだ。
生霊として現れた斎賀あかりの霊体とか。これならホラーか。いや、それではホラーというよりは怪談だ。ホラーと怪談は似ているようで違う。ホラーには、もっとこうグロテスクだったり、強大な力だったり、底知れぬ悪意だったり、理不尽な苦痛のようなものが必要だ。それでも生霊くらいなら、展開次第ではホラーになるかもしれない。
「どういうことか説明してくれないか」
俺が言うと、斎賀くんは無言で頷いて立ち上がった。
そして、ゆっくりとこちらを振り返る。
ゾンビのような悍ましい顔、狼の犬歯を持つ吸血鬼の顔、血のように赤い悪魔の瞳、そういうものであったならホラーかもしれないが、残念ながら振り返った顔は何ら変わらない斎賀くんの顔だ。
だが、ひどく悲しそうな顔をしていた。
「先生、告白いたしますけど、私は先生の担当編集者であり、先生の作品のファンですが、そういう仕事や作品とは関係なく、先生のことをお慕いしておりました」
突然の告白。
「え? あ、ありがとう」
ホラー展開だと身構えていたところで予想だにしなかった言葉を投げかけられて狼狽した俺は、なんとも冴えない返事をしてしまった。
斎賀くんに対してそのような気持ちになったことはないが、聡明で気配りもできる女性で容姿も平均以上だと思う。
年齢は正確には知らないが、確か俺より三つか四つほど下だった。俺も斎賀くんもお互いに独身で仮につきあうことになったとしても何もおかしくはない。
ああ。なんとなく察した。
今日の相談というのはこの事だったのかもしれない。幽霊というのは口実、ホラー作家である俺ならば幽霊と聞けば多少の用事よりも優先して話を聞くだろうと言うことか。なるほど、いつもなら筆が乗っている時などは「後にしてくれないか」なんて無碍に電話を切ってしまうこともあったから、そういう方便は俺に興味を向かせるいい方法だ。
斎賀くんとお付き合いすることになれば、今まで以上にいろいろと相談できるパートナーになってくれそうだ。
少しうわついた気持ちでそんなことを考えながら、疑問が頭に浮かんだ。
「いや待て。では先ほどの電話の相手は誰だったんだ?」
疑問が何も解決されていないことに気がついた。
斎賀くんは自分からの電話だったと知っているようだった。おそらく今起きている状況の事情を知っている。
「斎賀くん、俺が先ほど電話で話していた相手は誰だったんだ?」
俺の問いに斎賀くんは悲しそうな顔をした。
「お電話の相手は私だったんですよね? では、それは私です」
その答えに俺は首を捻る。
「ううーん……わからない。降参だ。斎賀くんにはわかっているのだろう? どういうことなのか教えてくれ」
斎賀くんは頷いて鞄からスマホを取りだし、スイスイと操作をして画面を俺に見せてきた。
それはニュースサイトに掲載された記事だった。
「人気ホラー作家、心不全で急死」
記事に掲載されている写真は俺の顔で、亡くなったとされているのは俺の名前だ。
日付を見ると二ヶ月前くらい。
「先ほどの電話は二ヶ月前の亡くなる直前に私がかけた電話です。先生は電話の後で心不全で倒れてそのままお亡くなりになったそうです。葬儀なども一通り終わりましたが、亡くなったはずの先生の姿を見たという噂があり、今日、確かめに来ました」
「ちょっと待ってくれ。俺はもう死んでいて、幽霊になっているということか?」
「はい。私も自分の目で見るまでは信じられませんでしたけど」
「つまり、俺は死んだ後もずっと執筆しているのか」
「はい。すみません、私が無理な直しなんて入れなければ……」
「いや……そうか。自分が死んだことにも気づかず書き続けていたわけか……いいね、ホラーだ」
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