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Ⅰ
男が耳を澄ませば、耳朶を打つのは荘厳に奏でられる演奏、蒼穹さえも貫き、割らんばかりの詠唱――。
今、劇場の席は声を出すことは叶わなくとも、大粒の涙を流し、この瞬間、ここに存在することを神に感謝する観客で溢れかえっているだろう。
男は曇空のような灰色の瞳を閉じると両手を指揮者のように振るう。
肩の上程まで襟足が伸ばされた赤銅色の髪が汗と共に宙を舞い、雪のように白い肌が熱を帯びて、徐々に赤みが差していく。
音を支配するわけでも追従するわけでもない。
彼にとって音は共に楽しみ、喜び、悲しみ、泣き、そして踊る〝恋人〟だった。
――「座長、お時間です」
コトンとグラスに氷が落とされたかのように響いた声に男――ロレンツォの思考が一瞬で鮮明になる。
もう少しこの特別な時間に浸っていたかったが、そうも言ってられない。
次は、こちらが観客を魅せなければいけない――。
「あぁ、わかった」
彼は酒場の女性からは人好きのすると評判の笑顔を浮かべ杖を手に立ち上がる。
「あっ! 待ってください! 服が乱れています!!」
目前で、せっせと夜会服のタイを締める女性は先日、二十歳になったばかりだ。
自分と四つしか変わらない彼女に今はすっかりと世話になってしまっている。
「座長、貴方に神の祝福があらんことを」
彼は帽子のツバを押さえながら、頭を僅かに下げて感謝の意を示す。
同時に真紅の緞帳が開き始める。
ジレから白銀の懐中時計を取り出し蓋を開くと、そこには彼と瓜二つの紳士と美しい女性が並び合い幸せそうな笑みを浮かべていた。
「さぁ、行こうか。奇術は魔法を超える!!」
舞台へと登場した彼を出迎えたのは、数人の酔っ払いと舞台に視線すらも向けずに騒ぐ子供達、それを大声で叱る親だけだった。
帽子から鳩が飛び出ても、コインが移動しても盛り上がることはなく、彼の舞台は静かに終わった。
無名で腕も平凡な奇術師の舞台を観に来る者などほとんど居ない。
劇場の外――。
喧騒と共に隣の劇場――ベルコーレ座の扉から興奮の冷めない観客達が出てきた。
ルーラ王国王都【レンハイム】の伝統ある一番の劇場から目と鼻の先にある地震が来れば倒れそうな劇場、それが彼がオーナーを務めるラツィオ座だ。
――「まだ、こんなことをしているの?」
振り向けば、青い髪と同色の鋭い瞳を持つ女性が立っていた。
「ビーチェ、君か」
ベアトリーチェ・グラツィアーニ。
ベルコーレ座を拠点とする〝国王歌劇団〟の歌姫でロレンツォが中退した音楽院の同級生だ。
先程の詠唱で観客を熱狂の渦に巻き込んでいたのも彼女だ。
「ロロ、貴方には才能がある。今からでも音楽の道に戻るべきよ」
「今はこれが僕の道だよ。この劇場をいつか世界の奇術師が集まり、多くの人を笑顔にする場にするんだ」
「ロロ……」
「今日の歌、素晴らしかった。次の公演は僕も見に行かせてもらおう」
帽子のツバを押さえながら、僅かに会釈をして彼はその場を後にする。
「ロロ、待って――!!」
ベアトリーチェの声に体勢は、そのままに彼は頭だけを振り返った。
「今日はエイプリルフール、この国風に言うとPrimo d'Aprileよ。嘘が許され、嘘みたいな奇跡でも起きる日」
「後者は、彼のサヴォイア伯爵が恋をした月夜の妖精エリアーデに連れ去られたという伝説からだったか」
「えぇ、魔法や御伽話よりも手品に夢中な貴方には無縁かもだけどね。素敵なエイプリルフールを」
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