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◆◆◆◆    川沿いに立つルカトーニの生家である赤煉瓦(あかれんが)の屋敷は既に閉館となっているが、今は生前に書かれた楽譜やピアノなどを展示する博物館となっている。  二人は近くのベンチへと腰を下ろした。 「私は彼の後期や本当に初期の音楽が好きなのです」 「それは珍しい。ルーラでは誰もが彼を国を代表する作曲家の一人と誇りに思っていますが、後期のような曲が国内で評価され出したのは晩年の話です」 「えぇ、ここでは今も昔も陽気で楽観的、そして自由であることが求められますから。彼の悲哀に満ちた曲にはあまりにも水が合わないでしょう」 「確かに彼は未だに国外の方が評価が高い。ここで好まれるのは中期の頃の軽快で陽気な曲です」 「本来、全ての芸術とは作り手のものであり、受け手は作られたものをありのままに享受(きょうじゅ)するだけです。芸術家とは最も傲慢(ごうまん)でタチの悪い人種なのですよ」 「中期のような曲はルカトーニらしくないと?」  ロレンツォの言葉に彼女の表情に、わずかな(かげ)りが見えた。   「そうですね。当時の彼は恋をしていました。報われることのない恋を……」    二十代の頃、彼――ジュゼッペ・ディ・ルカトーニは一人の女性に熱を上げていた。    だが、今以上に身分の壁が高かった当時、伯爵家の子息である彼が中産階級であり、家の仕事も傾きかけている女性と結ばれるのは茨の道だった。  更に彼女は難病を患っていた。    何とか彼女を支援したいと思いながらも、婚約者でもない相手に家の金を使うわけにもいかず、彼は自分の曲を売ることにした。  とはいえ、彼の作る悲哀の漂う曲は国では全く受け入れられていない。  彼が当時から今まで愛されている軽快で、聴いた瞬間に踊り出したくなるような曲を作るようになったのは自然だった。 「ですが……」 「えぇ、女性は彼の気持ちに応えませんでした。レンハイムを離れてヴォンに居る親戚を頼り、その数年後には亡くなったと言われています」 「何故、彼女はそのような選択をしたのでしょう?」 「理由はいくつかあるでしょう。ですが、おそらくは――彼に自分の望まぬ曲を作らせていることが何よりも辛かったのだと思います」 「彼女は彼を愛していたと思いますか?」 「えぇ、何よりも自分の気持ちをそのままに音楽に書き出している彼を」 「あらゆる人の悲しみに心を向け、自分のもののように曲として仕上げる」  ベンチより立ち上がったロレンツォの差し出す手を彼女は会釈で感謝の意を示し取る。 「はい、それこそがルカトーニの音楽ですわ」
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