VII

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◆◆◆◆  真紅(ワインレッド)の壁に街の風景や著名な音楽家の似顔絵が掛けられた店内で、二人は立ちながらにお酒を楽しんでいた。 「曲は何を?」 「ルカトーニのピアノ協奏曲第八番を」  リクエストを終えた彼はアンジェリカへと視線を戻す。 「この曲を聴いたことは?」 「何度か。ですが、私の好みとは……」 「今夜だけは初めて聴いたかのように、自分の感じるままに曲に向き合ってください」  彼はウェイターからセレストブルーのカクテルを受け取るとグラスの上で一度、指を弾く。    すると無数の白銀の光が宙で星のように瞬き、静かにグラスへと落ちていった。 「さぁ、どうぞ。これを飲んだら、貴方は曲への記憶を失います」 「ふふ、貴方は魔法使いだったのですね」 「いえ、奇術師です」  会話がひと段落したところで店主が、ゆっくりとピアノの演奏を始めた。 「踊りませんか?(ヴォイ・バラーレ)」 「喜んで(チェルタメンテ)」  カクテルを飲み干した彼女は、差し出されたロレンツォの手を取り歩き出す。    気まぐれなようで規則的、不自由なようで解放的な音に乗せて互いを探り合うように二人は踊る。    リードしたかと思えば、次の瞬間には自由な彼女の踊りに魅せられる。  心地良い駆け引きを繰り返し、熱を持った二人の頬は上気していく。    だが、旋律は徐々に浮き沈みの激しいものとなっていった。    自由を謳歌(おうか)する鳥は、その瞳を抉り取られたかのように先の見えぬ空を彷徨(さまよ)う。   「どうでしょう? この曲から彼の言葉を感じる事はできませんか?」  (つと)めて冷静に問いかけるロレンツォの瞳には、今までにない熱が込められていた。    見上げるアンジェリカの瞳から、薄暗い照明に照らされて輝くものが落ちていく。 「今が幸せな人はもっと幸せに、そうでない人にも少しでも笑顔を……でも人生には、ままならないことがあまりにも多い」  ロレンツォは彼女の言葉に何も返さない。    これは二人――彼女とジュゼッペの対話だ。  そして、旋律が再び、明るく自由なものへと引き戻される。    アンジェリカの目が驚きの表情と共に見開かれた。 「そう、貴方は苦悩の先に希望を見出そうとしたのね。あらゆる他者の絶望に共感して、自分のものにしてきた貴方が……」  二人の舞踏(ダンツァ)は曲の限り続く。    ロレンツォの左手に掴まり円を描いたアンジェリカの目前に彼は帽子(ハット)を差し出す。  間髪を入れずに(はと)と蝶が空を舞い、二人の頭上へと光の雨を降らせた。 「貴方、やっぱり魔法使いだわ」 「奇術(トルゥーコ)は時に魔法(マジーア)を超えるものです」    
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