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VIII
◆◆◆◆
吹き抜ける風が木の葉を揺らす。
月の薄明かりが並び立つ無数の墓碑を照らし出す。
二人が最後に来たのは丘の上にあるルカトーニの墓だ。
「一つ、教えて下さい。何故、貴方は音楽ではなく奇術の道を?」
「面白くもない話です。音楽一家に生まれ、それなりの才はあったと自負してますが、周囲が僕に求めてたのは〝魔法〟でした」
「魔法ですか?」
「えぇ、彼らは僕が書いた楽譜には全て魔法が宿ると信じていたのです。その時の彼らの目には私の父や祖父が映っていたのでしょう」
アンジェリカは口を挟むことなく彼の隣で星々が瞬く夜空を見上げていた。
「そんな時、この街で著名な奇術師達を集めた祭りがあったのです。驚きましたよ、彼らの扱う奇術は魔法とは違い〝種〟がある。つまりは〝嘘〟です。しかし、それは人を幸せにする嘘でした」
「人を幸せにする嘘……」
「はい、それは魔法よりもよほど僕には信用できた。この道ならば、自分のままに人を幸せにできると」
「それも貴方の仰っていた点と線ですね。瞳を抉られた鳥のように道に迷い、寄り道を沢山しても気がつけば、その翼で自由に蒼穹を飛んでいる」
アンジェリカは腕を背中で組みながら、ゆっくりと墓地を歩いて行き、一つの墓碑の前で止まった。
そこにはルカトーニが眠っている。
彼女は花を供えて愛おしむように墓碑を見つめた。
「彼は今では、国内外から愛される音楽家になりました。ですが、名誉が人を幸せにするわけではありません。彼の人生が満足のいくものだったのか、それを知る術はもう永遠にありません」
「僕は彼は幸せだったと信じています。生涯に渡ってこれだけ愛せる女性と巡り逢えたことは彼にとって、かけがえのない宝物だったでしょうから」
ロレンツォは胸元から紺色の小さな箱を取り出し彼女へと差し出す。
箱の中にはダイヤの両端に紫水晶が配置された指輪があった。
「どうして……」
彼女の顔に明確な動揺が走り、瞳からは抑えきれず、涙が一滴、また一滴と星のような輝きを放ちながら地面へと落ちていった。
「僕は貴方に一つ、嘘をつきました。僕の本当の名はロレンツォ・ディ・ルカトーニ。ジュゼッペ・ディ・ルカトーニの孫です」
ロレンツォはジレから懐中時計を取り出し、その蓋を開ける。
そこには彼と瓜二つの紳士と美しい女性――アンジェリカの姿があった。
「貴方が……そう、これは彼が私にプロポーズをしてくれた指輪だわ」
「祖父は、この時計と指輪をとても大切にしていました。僕の小さな時に彼は亡くなりましたが、この指輪をたまに眺めてる時の彼は優しそうな顔をしていましたよ。どんな形にせよ、彼の人生には貴方との一瞬が必要だったのだと思います」
今度こそ、アンジェリカはその場に崩れ落ち、指輪を愛おしそうに両手で包み込み、空へと感謝と愛の言葉を叫んだ。
◆◆◆◆
「Sig.ルカトーニ、本日は素敵な夜をありがとう」
「僕のことはロロと呼んでくれませんか」
「わかったわ、ロロ。貴方もアンジェと呼んでくれると嬉しいわ。もうすぐ魔法と奇跡の時間も終わり。貴方に出逢えて良かった」
「僕もだ。最後にこんな特別な夜ということを言い訳に一つだけ僕の罪を許してほしい」
「えっ――」
アンジェリカはそれ以上の言葉を紡ぐことはできなかった。
彼女の唇をロレンツォが自分のそれにより塞いでいたからだ。
「……先程の嘘を許した分で、貴方への温情は使い果たしたのだけれど」
「手厳しいね。次に会った時にまた文句は聞くさ」
風が二人の間を吹き抜け、街の時計塔から零時を告げる鐘が鳴り終えた後、アンジェリカの姿は既にそこには無かった。
◆◆◆◆
ロレンツォはもう一つの嘘をついていた。
胸元から取り出した紺色の箱には先程、彼女に渡したのと同じ指輪が入っている。
だが、それはもっと年季を感じさせるものだった。
彼が渡したのは途中の宝石店で買った同じメーカーのものだ。
人気のあるモデルなので今も売っていたのは幸運だった。
彼はジレから再び懐中時計を取り出す。
「お爺様、貴方への義理は果たしましたよ。今度は僕が彼女を口説いても良いですよね?」
アンジェリカは写真を初めて見た時から、彼にとっても初恋で今もずっと想い続けている女性だ。
この奇術と呼ぶのもくだらない、嫉妬心からの小さな〝嘘〟に気がついた時、来年のPrimo d'Aprileに不機嫌な彼女が再び自分の前に現れてくれるかもしれない――。
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