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4月上旬。時刻は19時を回るところ。
ハルカは、渡瀬川にかかる橋の欄干に背を預け、ぼんやりと行き交う人々を眺めていた。
今日は週末から降り続いた雨が止み、久々の快晴だった。昼間は春らしい気温ではあったけれど、この時間になるとまだ少しだけ肌寒さが残っている。
3月末に桜の開花宣言が出されたここ榊町は、都心からは少し遅れているらしい。渡瀬川の両岸に植えられた桜は満開で、点々と吊るされた提灯の光に照らされ、薄闇に咲き誇っていた。
毎年近所の家族連れやオフィスワーカーたちが集う一大お花見スポットであるこの場所で、『SUKURA Fes』なるものが開催されるようになったのは、今から5年前。明確に覚えているのは、かつて恋人だった市井梓とともに記念すべき初回開催を訪れたからだった。
そして今日、ここを訪れたのは、彼女との約束のためだった。
大学時代、サークルで出会い、付き合い始めた梓とハルカは、5年前まで付き合っていた。
振られたのはハルカのほうだ。別れに納得できなかったハルカに梓は言い放ったのだ。
『5年後、もしハルカの気持ちが変わっていなかったら、ここで会おう』
梓は少し浮世離れしているところがあった。二人はここ、落合橋の上で別れ、そしてちぎれそうなほどほそい運命の糸を手繰り寄せようと霞のような約束を交わした。
ハルカは腕時計を確認する。まもなく19時だ。
5年後の4月4日、19時。もしもう一度運命があるなら、ここで。
あと20秒、15秒、5秒、4、3、2、1ーー
ハルカは秒針が12を回るのを確認してから、逸る心を落ち着かせるべく目を閉じ、俯き気味にふう、と息を吐いた。
もうすぐ、知ってしまう。いや、思い知らされてしまう。
周囲のざわめきが遠のき、生ぬるい風がハルカの顔をあげさせた。
「ハルカ」
笑って立つその人は、梓だった。
「……なんで?」
それは、絶対にくるはずのない人。
驚き目を丸くする俺を前に、梓は噴き出す。
「なんでっておかしくない? だって、約束したじゃん」
梓は何でもないことのように笑った。
「久しぶりだね。さぁ、歩こうよ。すずめ橋まで。夜桜が綺麗」
笑うと見えなくなるくらい、弓なりで幸福そうな梓の笑顔が好きだった。
「ハルカはなんか、老けたねえ」
「まあもう30だからな」
並んで歩きながら、薄闇に浮かび上がる桜を眺める。
「今日はお花見日和だね」
「ああ」
「『SAKURA Fes』ってまだ続いてたんだね。すごい人。初回からなんだかパワーアップしてない?」
最初は小規模だったイベントも、今では両岸に縁日のような屋台も並び、ちょっとしたお祭り騒ぎだ。
「近所の個人店とかが店前で商品売ったりしてたみたいだな」
「あ、見て。りんご飴」
梓につられて目をやれば、りんご飴を持ったこどもがちょこまかと走り回っていた。
梓はその姿を微笑ましそうに眺めている。
そこでふと、ハルカは周囲の光景に違和感を覚えた。
(あんな店、さっきまであったか?)
なんだか、屋台が増えている気がするのだ。
それに、人出も増えている。
いや、今日は水曜日。19時を過ぎて人が増えるのは大しておかしいことではないのかもしれない。
でも、すれ違う人たちがなにかおかしい。
正確には、おかしいものが混ざっている。
面をつけているでもないのに、墨で塗られたみたいに顔が見えない人たちが所々に見られるのだ。
いくら夜とはいえ、提灯の灯りも街灯もあるわけで、真っ暗闇というわけではない。
その証拠に、ハルカの目にはしっかりと梓の顔は見えている。
周囲に気を取られていると、梓がそっとハルカの腕を掴んだ。
その冷たさにハッと梓の方を見た。
「大丈夫。わたしから離れないで」
薄えみを浮かべながらもまっすぐな梓の瞳の強さが、ハルカの印象に残った。
ふたりは歩き続けた。
時折舞う桜の花びらが、この世のものじゃないみたいに綺麗だった。
「ハルカは今、何やってるの? 相変わらず?」
「ああ。代わり映えしないよ」
新卒から8年勤める会社は、いたって語ることもない、ふつうの会社だ。
堅実と言い換えれば聞こえはいいけれど、旧態依然とした終身雇用の年功序列の社風が強く、かもなく不可もない、辞めようにも辞める理由なんて特別なかった。
「ユズルは起業したんだよ。ITベンチャー」
「へえ! すごい!」
ユズルは、大学時代のふたりの同期だ。当時から「ぜったいビッグになってやる!」が口癖で、仲間はみんな、そんなわけあるかと軽くあしらっていた。まさかその目標を叶えるなんて誰もが思っていなかっただろう。
「ススムと楓は結婚して。去年子供が生まれたんだ」
「ええ! あそこが一番続かないっておもってたのに!」
「だよな」
大げさなくらいに驚く梓につられて、俺もつい苦笑いしてしまう。同級生の間では、俺と梓が最初に結婚するだろうと言われていた。
現実は、そうではなかったわけだけれど。
「みんなすごいよ。どんどん先に進んでさ。俺は全然。時間が止まったままみたいな感じで」
つい感傷的になってしまったのは、夜桜という幻想的な雰囲気と、梓がここにいるという非現実感が混ざったが故だろう。
過去に想いを馳せながら、どこでこんなに差がついてしまったのだろうとふいに孤独が襲った。
「わたしだって変わらないよ! 今でも大好物はワンカップ酒にプリン」
「いや、何度でも言うけどその組み合わせは絶対ないだろ」
「ええー?! ハルカってほんと頭かたい! そうやっていっつも試さないんだから」
「だって結果は目に見えてるだろ」
「そんなことないかもよ? たまには冒険しなさい、若人よ」
揶揄うような梓の言い方に、二人は顔を見合わせて笑う。
梓はフットワークが軽く、いつもふらふらとしているように見えた。ついつい考え過ぎてしまうハルカにとっては、理解できないと頭を悩ますこともあったけれど、結局はそんな梓に、ハルカはいつも救われていた。
「人生は短いよ、ハルカ」
笑ってはいるけれど、梓の目には少しの悲しみが浮かんでいた。
それからぱっと表情を変える。
「ハルカは大丈夫だよ、私が保障する!」
梓はいつもこうしてハルカを鼓舞してくれていた。卒論に苦戦したときも、就活で落ちまくりどん底に突き落とされたときも。梓がいてくれたから、ハルカはその姿に励まされ続けてきたのだ。
「ーー傍にいてくれよ、梓」
気づけばハルカの目から涙が零れていた。
その姿に梓は困ったように眉を下げる。
さっきからくるくると表情が変わる。
そんな梓の素直なところも、ハルカにとっては愛おしくてたまらなかった。
「できないよ。ハルカだってそれはわかってるはずでしょう」
梓との約束は果たされることがないことをハルカは知っていた。
梓はハルカと別れて1年後、死んでしまったからだ。あまりに突然の事故だった。
赤い橋ーーすずめ橋が目の前に見えた。
梓とハルカがそのたもとに着くと、ちりん、と鈴の音が聞こえた。
この橋はもともと、鈴鳴橋と言ったらしい。
それがどこから聞こえてくるのか、誰も知らない。
「俺も一緒に渡りたい。梓といきたい」
桜の樹がざわざわと揺れ、ハルカを対岸へと誘っていた。
ハルカには決して顔の見えない人たちが、ハルカと梓を通り越して、すずめ橋を渡っていく。
「だめだよ、ハルカはまだ渡れない」
渡瀬川は渡世川。
夜桜の季節、渡瀬川を挟んであの世とこの世が交差する。
昔から榊町では言い伝えられていることだった。
落合橋から鈴鳴橋までの、ひとときの逢瀬。
二人の別れを告げるように、
ごうごうと風が鳴り、桜が舞う。
ちりん、ちりん、と鈴の音が急くように鳴り、その音はだんだんと大きくなっていた。
「俺、ずっと後悔してた。あの日、もし俺が梓からの電話に出てたら…」
梓はしばらくストーカー被害に遭っていて、その相手から逃げる途中で事故に巻き込まれたのだ。ハルカはその日、会社の飲み会で上司に連れ回されており、梓からの着信に気付かなかった。
あの時電話に気付いていたら。出ていたら。梓は今も隣にいたかもしれない。
後悔しない日はなかった。
「違うよ、ハルカ! わたしハルカに助けてもらいたかったわけじゃないの。ハルカに電話したあの時、わたしもう事故に巻き込まれてた。ああ、もうだめだなぁって思った時、ハルカの顔が浮かんだ。どうしても最後に、ハルカの声が聞きたかったの。自分から別れたいって言ったくせに、どの口が言うんだって話だよね」
鈴の音が近づいてくる。
それに呼応するように桜の花びらが吹き荒れて、らせん状にハルカを囲みどこかへ連れ去るがごとく勢いを増す。
自分の目から落ちる涙と花びらがごちゃ混ぜになって、ハルカは花の嵐のごうごうという音と鈴の音の中から、梓の声を拾おうと必死だった。
「ほんとうにごめん。そんなわたしのわがままで、ハルカをずっと苦しめることになるなんて…それを謝りたかったの」
心なし、梓の声が震えているようにハルカには思えた。
「ハルカ。私を愛してくれてありがとう。だからこんどは、自分を愛して」
ちりん、
とひときわ大きな音が鳴ったかと思うと、ハルカの意識はぷつりと途絶えた。
最後に目に残った、桜の嵐に巻かれるように立つ梓は、ほんとうに綺麗だった。
***
気づけばそこは先ほどまで立っていた落合橋の上で、りんご飴を持ったひとりの少年がハルカを不思議そうに覗き込んでいた。
「ママー? このお兄ちゃん泣いてるー」
子供の母親と思われる女性が慌てたようにハルカに近付いてきて、無垢な少年を抱え上げて「どうもすみません」と気まずそうにペコペコとハルカに頭を下げて去っていった。
時計を見れば、時刻は19時を回るところ。
涙が止まらなかった。
満開の桜を愛でる花見客。
この中で、どれだけの人が過去との逢瀬を重ねているのだろう。
しばらくして、ハルカはずずっと鼻を啜る。
来週は休みを取って、ずっと行けなかった梓の墓参りに行こう。
大好物のワンカップ酒とプリンを持って。
ハルカはまっすぐに前を向くと、浮き足立って湧く花見客たちの中へと帰っていった。
おわり
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