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序章・桜の国で ②
「私は国から、仕事の合間に勉強させて貰っている身分です。仕えている御方が日本人なので、日本語の勉強をしています」
「え?ヴァリューカにいるのに?日本人に仕えてるの?」
「奥方様が日本の方なのです」
国から派遣されているのに、仕えているのは日本人だというアッシュの素性が見えなかったが、遠い国の話なので日本からは想像出来ない世界なのだと、何となく理解する。
「アッシュは国から派遣されてるって偉い人なんだな。そしたらもう、本当は学生じゃないのかな?」
「大学はアメリカで最終学歴まで修得しました」
「中東で生まれて、アメリカの大学出て、更に国からの援助で日本に留学?スゴい優秀な人じゃん!」
今は日本語にとても苦労してます、と言って笑った笑顔が眩しい程だった。
この人、よく見るとスゴいイケメンかも……と、今更ながらに思った。
ふと、湊は自分を振り返ると、引け目を感じてしまった。
大したスポーツもして来なかった体は、ひょろりと背が高いだけで筋肉に乏しく。
黒目がちな瞳はくっきりとしていたが、薄い醤油顔は典型的な日本人の相貌で。
十人並みな自分と比べて、アッシュの肉厚な胸板は鍛えられた男性的なものだった。
「アッシュは、何か鍛えてるの?スゴい体だけど」
「最低限の護身術位は軍隊で習いました。でも、主人の方が凄いんですよ。武術に秀でた方で、国の英雄として崇められています」
アッシュが仕えている人物は、かなりの権力者のようだった。
その軍隊の偉い人なのかな?と、想像したが、ヴァリューカ自体、全く知らない国なので話の全貌が見えない。
「アッシュはターバンみたいなの、頭に着けないんだな。向こうの人はみんな被るもんだと思ってた」
「本当はクフィーヤを被りたいのですが、今はテロなどが騒がれておりますので、日本にいる間は仕事以外では被りません」
着ている服をよく見ると、全てがブランド物だった。
背の高いアッシュが纏っていると、まるで雑誌の一流モデルのようだ。
金の大きな輪のピアスも、日本人の男が着けていたら不自然極まり無いが、アッシュが着けているとおとぎ話の王子様のようだった。
仕事もしていると言ったが、ひょっとしたら大会社の企業戦士で、物凄く稼いでいるのかも知れない。
軍隊の偉い人に仕えていて、その奥さんは日本人で、アッシュは企業戦士?、と想像はまとまりがなかったが、中流家庭で生まれ育った凡人の湊には理解出来ない世界で。
だが、あまりしつこく詮索しては失礼になるかと思い、それ以上は問わなかった。
「えっと、講義だけど。まんべんなく、一定のジャンルを押さえておかないといけなくて。あ、留学生の場合はどうなんだろ?」
「普通で構いません。私の場合は普通の学生より出席日数は問われませんが。ただ、日本語についての講義は沢山受けたいです」
「そしたら月島教授の日本文化の講義は面白いよ。日本語の美しさも学べるし」
「でしたら、その講義にはチェックを入れて下さい」
湊はアッシュの希望を聞きつつ、選択授業を書き入れた。
湊は紙面を睨んでいた顔を上げると、直ぐ近くにアッシュの顔が寄って来ていて、ドキリとした。
何色と分類し難い不思議な色の瞳が、湊の顔の、5センチ先にあった。
「ミナトはとても優しいんですね。これからもミナトと過ごしたいです」
アッシュの外国訛りの日本語が、まるで告白のように聞こえて、湊の心臓が激しくざわめいた。
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