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霍石英は窓の外を睨み付ける。雲は紗のごとく月を遮り、あたりは微かにほの暗い。風は下へと吹き下りて、狙い澄ます賊徒の気配がひしひしと肌を刺すようだった。
いつ飛びかかってきてもおかしくはない。その緊張感に押しつぶされ、たまらず柄を握ろうとして、明椿林が鋭く言い放つ。
「剣を抜けば私への侮辱とみなす。蠍帝から李西を賜ったのは私だ。乱闘を起こしに来たわけではない。肝に銘じろ」
その蠍帝が霍石英に誰の警護を任せたと思っているのか、たかが流罪となった官人一人に武人を同行させるとは、やけに大切な相手らしい。
それでも、貴族制の強い宮廷では蠍帝の威光など、蛍火ほどの権威にしかならない。蠍央が横暴な振る舞いを持って乱君と言わしめなければ、明椿林の流刑など存在するはずがなかったのだ。
「ではどうやって切り抜けますか。文人だからと、相手まで筆を持って戦うとは思えません」
「私が囮になる。お前は息をひそめ、隙を見てここから抜け出せ。私もお前も、まずは命を保証しなければ――」
霍石英を棚の影に押し込めようとして、刹那、目の前に剣光が迸った。
その一瞬の光りのうちに霍石英の呻き声があがり、血潮が頬に跳ね返る。重く倒れ込む物音に明椿林は青ざめた。
――春永国の残党。
どうやら、史書に違わぬ残虐ぶり。
この暗さでは相手にも姿は見えていないはず。明椿林は霍石英の無事を確かめようと手を伸ばす。しかし、視界はぐるりとかき回されて、ハッと手を突こうとした瞬間に、身体は引き倒されていた。
捻り上げられた腕の痛みに息を呑み、背筋が引き攣るほどの恐怖に空声を喘ぐ。髻を引き掴む手に仰がされ、細い首が弓なりに戦慄いた。その喉口に鋭い氷刃が食い込む。
「ああ――っ!」
たまらず苦痛な声を上げて叫ぶ明椿林に、男の手が弛んだ。
――郎君。
震えた唇から小さく漏れたその声を、明椿林は聞き逃さなかった。
「蒲弧垂……?」
――いや、晨羅寒。
なぜ彼がここに――。
雲の切れ目から差し込む月明かりに照らされて、男の姿が浮かび上がる。身に纏う衣こそ違うが、その体つきと声は紛うことなく蒲弧垂その人。顔を覆う透かしの布面の下に彼の輪郭を求めようとして、突如と響いた断末魔に意識は引き戻された。
新手の賊徒か。
身構える明椿林は、伏せた男の身体から剣を抜き、すらりとした背筋のままに血糊を払い落とす男に困惑した。
のどかな春光に照らされて爽やかな風が吹き渡るような容貌が、脂燭の明かりの下にある。短く切り落とした黒い髪は卑しい身分のように見えるが、彼の美しさは陰りの中でこそ一際輝き、火花の散るほど激しい猛りを瞳にのぞかせていた。
「萃緑だ。……一人、逃したな」
賊徒の不始末をぼやく男に、明椿林は安堵する。どうやら、危害を加えるつもりはないらしい。そして彼の示す晨羅寒がすでに官舎からも遠ざかってしまったことをしるのであった。
「霍石英、傷口を見せろ」
萃緑の握る脂燭はじわりと打ち広がる血の池を掠う。その波の端が明椿林を頭からのみ込んでいくようであった。ただ静かに靡くばかりの夜の帳に、縋ろうとする気配がないことに、明椿林は震えていた。
「霍石英!」
取りすがる彼の身体はぐったりとして反応がない。傷口は絶えず暖かな血を流し、押さえる明椿林の手を零れて溢れるばかり。霍石英の頬も手も白く冷め切って唇はだらりと垂れ下がっている。その際に、何を口にしようとしたのだろう。
明椿林は、ああ――と、褪めていく気持ちに引きずられ、血だまりの中に頽れた。
剣によって応じればそれこそ命を捨てるようなもの。その判断が間違っていたというのなら命を落とすべきだったのは――。
顔にはりつく霍石英の髪を払いのけ、青白く乾いていく唇に自らの血を重ねた。
「調査吏がいらっしゃると伝書をうけ、迎えにきた」
「誰の指示をうけて?」
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