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 明椿林(ミン・チンリン)はひりつく傷口に手を触れて、昨夜の騒ぎに思いを馳せる。  晨羅寒はためらいなく剣を握り、誰であろうと切り落とすつもりだったに違いない。  亡霊になって出るほどの後悔を残し、身体を得てまで果たしたい恨みがあるとみる。  それなら巫女や祈祷師に訴えるべきであって、明椿林の前に現れる必要はなかったはず。  どれも、明椿林は答えを持たない。ただわかっていることは、賊徒である彼に蒲弧垂(プー・フーチョイ)の身体を与えてしまったということだけ。  死者を冒涜し、さらには蠍央(シエイン)の脅威ともなりえる勢力に加担した事実は変わらない。もし、玉座に罅が入るようなことがあったら。そう考えただけでも恐ろしい。 「賊徒だけが、この李西を煩わせる――」  彪吝(ピアオ・リン)はおろした髪を風に膨らませ、浅黒い肌に綾取るような木漏れ日を躍らせていた。  県令の邸宅は白玉の壁と秋津羽(あきつは)の床でできていた。  注がれる金色の陽ざしは、心が奪われるほどの美しい光りを放つ。窓の下には開けた中庭が望めた。枝は豊かな緑に潤い、たわわにしなる樹木に、思い思いに生え伸びた下草。そこに、金梅の散ったあとのような黄色い花が咲き渡る。穏やかな邸宅であった。  彼は勿論、李西の状況は上帝にまで届いていたと思っていた。返事を持たせて送り返したというのだから。しかし誰一人として戻ってきたものがいないとの情報を照らしあわせれば、やはり、噂は事実と違わないということか。何人もの官人が砂漠を越えて李西を訪れたが、その足取りは荒漠に消え、賊徒の剣によって帰路を断たれたのだ。  騎馬民族たちの蹴立てる蹄の音が、怒濤のように唸りをあげて迫るような不穏さに、じわりと浮かぶ汗を握り込む。 「賊徒が、ここを足がかりとして全土へ――、との野望を持っていてもおかしくはない」  彪吝の言葉が今も繰り返し脳裏を駆け巡っていた。  先鋭一万ほどの兵を要求した彪吝の書簡を運びながら、霍石英のせめてもの弔いをと、明椿林の姿は官舎にあった。  歳月を積み重ね、(いにしえ)の匂いの染みこむ古くさい建物。  古月(こげつ)に照らされた楼閣は灼熱の日の下にありながら、ひんやりと冷たい空気に包まれていた。どこかじっとりとして暗い雰囲気が淀んでいる。  きしむ階段をゆっくりと登り、部屋の扉を開けたとき、えっ、と、明椿林は目を疑った。  そこには血の痕が床に残るのみで、霍石英どころか賊徒の死体さえ、すっかり消えてしまっていたのだ。まさに夢の跡を掴まされたように思われて明椿林は面食らう。  ――運んだのか?  入り乱れる足跡は外へとむかっている。明椿林は窓際に駆け寄り、陽炎に揺らぐ古関を目にした。  まさか、賊徒の仕業ではないかと思われた。今すぐに取り返し、霍石英をせめてこの手で――。
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