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 荒風に誘われた風紋(ふうもん)に足跡は消え入って、風砂(ふうしゃ)はやがて古関や丘墟(きゅうきょ)を重く包む。  朽ち落ちた城門を抜けたとき、晨羅寒(チェン・ルオハン)の手が、まるで恭しく触れるかのように明椿林(ミン・チンリン)を引き留めた。  目の前を閉ざしていく布面に明椿林は驚く。 「私が顔を隠す必要は……」  慌てて問いただそうとするも、明椿林はその先を続けることが出来なかった。薄い絹の向こうで、彼の澄ました顔がじっと故国に注いでいた。  古城は土と化し、かぶさる珪砂(けいしゃ)(あか)く、その姿は丁度、たたんだ翼のようだった。固く閉じた羽の下をもぐるようにして入っていくと、乳白色の花の香りが導く。  星空に冷まされた日方(ひかた)の風が、汗だくの身体を優しく撫でていった。噴き出す大粒の汗を拭いつつ、肌に張り付く砂利を払い、ゆっくりと視線を巡らせる。  天穹の天井は傾き、時折歪みからさらさらと砂が落ちた。壮麗な柱は折れ倒れ、当時の戦乱の激しさを思わせる回廊や壁の亀裂に、蔦や夏椿の万緑(ばんりょく)がうめく。光りを帯びた真珠のようなつぼみが目映く目をさす中、晨羅寒はその先で、咲き荒ぶ花房を掲げもち、明椿林が来るのを待っていた。  光の中でたゆたう塵と、細かに注ぐ光の筋は玉廉(ぎょくれん)のようだった。清らかな(すだれ)を掻き分けるようにして明椿林は彼の隣に並ぶ。  水の、さらさらと流れる音に目を向ければ、翠湖のわき出す池の中央に、花茨(はないばら)をつるませた台を寝台にして、横たわる霍石英(フオ・シーヤン)の身体があった。  土気色の顔は光りの波に照らされて僅かに血の気があるように見える。  言葉が死者を慰めるのなら、琴弦を求める人もなかったはず。  明椿林はここに琴がないのを惜しく思いながら水の中を分け入った。袖は水面の花びらに染まる。寝台の傍らへと上がって、寄り添う身体はたっぷりと雫をまとっていた。 「ここに霍石英がいれば、晨羅寒を恨めない私に彼は生ぬるいやつだといっただろう。情の欠片も持ち合わせていない薄情者と……」  胸元に組まれた手に椿の枝を握らせて、明椿林は瞼を伏せる。 「霍石英にあわせるために、私にここを?」 「筆の力と官吏の神を信じるというのなら、なおさら私の言葉は信用にあたいしないだろう」  残念そうな声遣いだった。蒲弧垂も、宮廷での地位に愚痴を漏らすとき、「誰もがこの熱意を正当には評価しない」と落胆を重ねたのだ。まるであの、青水無月(あおみなづき)の一幕が蘇るよう。  伸ばす彼の手に捕まり、明椿林は玉廉をおろすようにゆっくりと、霍石英に別れを告げた。
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