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夜が明けると、凍てつくほどの寒さである。
明け方、雪雲は東に残った。
薄く棚引く雲の隙間から、昇り始めた太陽が枯れ枝を縫うようにして、陽ざしをさしていた。
その弱々しい黄白の光りに照らされて、庭は真っ白に美しく照り輝く。
雪は珍しくはないことだった。
それでも積もるほど降るのは、一年に一度ほど。朽葉や木末が綿をかぶったように積もることは滅多にない。
早く起き出した子どもたちの声が、澄みきった青空に響いていた。
その賑やかな声に引きずり出されるようにして、元済は厨房を出る。と、思いがけず踏みとどまった。
雪上を撫であげる厳しい風が、容赦なく老体に吹き付けたのだ。
骨身に透けるほどの寒さに、この時期だけは火の傍から離れたくはないものだと息をつく。
襟をかき合わせ、元済はすり足を響かせて主の部屋へと急いた。
その足音を雪の払う箒の音と思い、夢うつつの境にぼんやりと聞いているのは、明椿林である。
夜を漉した白露のような涙が、陰鬱な影さえ洗い流してしまったかのような部屋であった。
諸々の書画とともに、白緞子の訶梨勒が壁にかかり、それが強烈な寒風に揺れているのを見れば、蔦を絡ませた窓が開け放たれている。
明椿林はそのすぐ下に、琴を枕にして転がっていた。
淀んだ空気を纏わせ、蹲るその姿からは想像もつかないほど、明朗とした青年だったのだ。
――ああ、なんて無茶をする人だ。
今はまるでしぐれに破れた玉梅のようだと、元済は心苦しく思う。
まろやかな朝日が雲間から僅かにさしこむと、倒れ伏す身体は霜の敷く大地のようにきらきらと光った。
「昨晩は、……良く、お眠りになりましたかな」
言いながら、元済は気の利かないせりふに独り悪態をつく。
僮房にいながら知らないはずがない。夜更けすぎまで、明椿林の琴の音が聞こえていたのだ。
使用人が心を痛めて泣き出したので、元済はそれを落ち着くまで慰めていた。挙げ句に、夜宴帰りの武人が屋敷の前を通りかかったらしく、主を知りたがってうるさかったのだから。
心が震えるほどの繊細なその音は、うら若い乙女の失恋の嘆きと思われたらしい。
ほつれた髪を背に這わせ、明椿林はもぞもぞと動く。目鼻立ちのはっきりとした顔が、その髪の間から、うっそりとのぞいた。
生白い顔に苦悶の表情を浮かべ、その口元は哀嘆を叫ぶようだ。
「元済……。悪いが、白湯を持ってきてくれ……」
気怠げな声は酒に焼けて嗄れている。
「用意しております」
元済は縁付きの浅い皿状の盆を傍におく。
「琴の音が、随分遅くまで聞こえていましたが」
無造作に脱ぎ捨てられた衣は凍て雲の綾を淡く縫いとったもの。ただそれだけが、昨晩の哀愁を残すようだった。
窓を閉めると衣を手にし、身体をかき抱く明椿林の背にかけた。
白湯を注いだ器を掬おうとして、明椿林が制止するように手を伸ばす。月夜が滴るように黒い髪の間から、皹だらけの腫れ上がった元済の手を見つめていた。
「構うな、元済」
一口、咽に流し込む。明椿林は記憶を辿るように問いかけた。
癖のない黒い髪がはらりと伝い落ちる。
「それより、昨晩、誰か客があったようだが」
「お客というには、少し、違います。旦那様を娘と勘違いした、夜宴帰りの武人方です。深窓の令嬢を一目見たいと押しかけてきましたので、追い返しておりました。その、騒ぎでしょう……」
元済が明椿林の黒髪を手際よく結い上げる間、明椿林はそっと微笑を零し、銀の器に匂やかな唇を灯した。
朦朧とするような意識の中でみた、煙のような男の姿をそこにみる。
元済が止めるのも聞かず、わざわざ琴の使い手を見にやってきて、その正体を男と知り、さぞがっかりしたことだろうと、そう思ったのだ。
それにしたって、武人相手に追い返そうとするとは、随分肝の据わった翁である。ただの耄碌した親父と思っていたが。
一介の使用人の分際で――。そう、罵られたに違いない。
「あなたが苦労している間に、主は泥酔中だなんて呆れたか? 誰もが酔えば忘れる。ここが、明椿林の邸宅だということを」
苔に蝕まれ、流れ落ちる夕日を宿したような池――。そこに、明椿林の琴弦が僅かな水面を震わせると、枯れた花は再び匂い立ち、水は青青と漲った。敗走した陣の心さえ高ぶらせるものと賞賛されたのだ。
上帝の目にも鮮やかにうつったはずだが、琴の名手、文人の明椿林が身を置く邸宅は、白い屋根と白い壁が草臥れた小さな屋敷。緑の鬱蒼とした木々に葛をしげらせ、月もあぶれるほどの小さな池が一つあるだけの、草の匂いに満ちた狭い邸宅だった。
うだつが上がらない明椿林にとっては似合いの家である。
今となっては妙な愛着まで湧く始末。
その、門のあたりで、微かに人声が聞こえてくる。誰か尋ねてきたようだと、元済は慌てて腰を上げた。
足音は忙しなく遠ざかっていき、やがて遠くで聞こえる爽やかな声が、木々の芽を含む風となって、部屋の中に入り込んだ。
明椿林はぶるりと震えて衣をかき抱く。
衣擦れと共に、氷を結んだ小さな結晶が、愛らしく音を立ててころがり落ちた。触れれば忽ち融けだす白い花に息を零し、遠い春を見つめるように琴へと視線を送る――
と、たまらず仰け反り、ヒッ、と声なく悲鳴をあげた。
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