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先を急ぐ晨羅寒に明椿林は自然と小走りになる。
憧憧とゆらぐ光りが幾度と頭の上を過ぎていき、壁を這う唐草の彫飾から解放されたとき、古色を帯びた回廊を抜けた。
砂に蝕まれて不気味な回廊の姿が、背後にあった。そのどこにも、裂けた割れ目を緻密に生え盛る緑の色はない。
真珠や白玉、金色の幻想は、目の前に広がる朝廷の、湿った土の匂いに錆びついてしまったかのようだった。
玉座へと上る階は、その錆の色と、散り敷いた紅蓮の花びらの、くすんだ色に染まっている。
――薄ら寒い。
明椿林はそう思った。
肉を侵し、狂騒の滾りを植え付けるような恐ろしさだった。
「明椿林、春永国の歴史を残さなければならない。正史を記し、歴史を辿れば、その先に必ず、私の身体がある」
焔がのたうつような晨羅寒の声。故国を宿す彼の瞳は青い炎に揺らぎ、明椿林が恐怖したように、彼の身体もまた、一瞬のうちに浴びせられた不快感にもだえているようだった。
強くにぎり込んだ拳を硬く腿に押しつけるその姿に、明椿林は骨が断たれるような痛みを覚える。
蛮族として滅ぼされた春永国の、埋もれてしまった物語を綴るということは、上帝への離叛と見なされてもおかしくはない。それも宮廷に仕える文人が上帝の歴史を歪めるような真似をしてしまえば、今度こそ流刑ではすまされない。
首を落とされた蒲弧垂のように――。
「上帝が道を踏み外さないために、官吏がいる。私が彼を裏切ることはできない……。書簡を、彼のもとに運ばなくては――」
「官位の剥奪を恐れるか?」
足はすでに、過去の怨念が渦巻く場所に踏み入れていた。
僅かに触れた爪先が、濃く立ちこめる霧をひき裂くように、朝廷の記憶を開く。
その隙間を熱風がこじ開けた。火を吹くようにして噴き出た風が、突如と明椿林に襲いかかった。
押押し寄せる風に息は段々と苦しくなっていく。顔を庇いながら、風の止む間を探そうと藻掻くが、その直後、弓矢の音が首筋を掠めた。
視線を仰ぐ。
――一体どこから。
素早く玉座の後ろに視線を走らせ、朽ちた柱の陰、そして背後の回廊へと振り向いたとき、明椿林が目にしたのは、戦地であった。
宮殿は煙が立ちこめていた。逃げ惑う声や足音が四方から溢れて、己の声さえ聞こえない。朱色の旗が、その土煙の中を翻っている。鬨の声とともに駆け抜けていく兵士の勢いに押され、蹌踉めく足が屍に蹴躓いた。
ひしひしと迫る炎の熱さに皮膚が焼けていくようである。
空は煙りに覆われて薄暗い。その暗がりの中を一瞬の光が燦めいた。
――矢尻。
「――晨羅寒!」
兵馬と入り乱れる戦場で、晨羅寒の姿はない。慌てて駆け出そうとした明椿林の頭上に、兵士の剣が振りかぶった。躱そうと身体を竦めるが、迷いなく振り下ろされた剣は明椿林の肩を両断した――。
かのように思えた。
恐る恐ると開いた目が捕らえるのは、静謐に沈んだ死肉や血だまりであって、騒乱の影はすでになかった。
散ったばかりの血潮から暖かな気が立ち上っている。辺りは薄ぼんやりと烟り、痛いほどの静寂が屍の間を蔓延っている。物音一つ聞こえてこない。
不安げに、晨羅寒と呼びかけて、しばらくしてから「明四――!」と、響く声を聞く。
戦塵の中から駆けつける晨羅寒に、思いがけず安堵した。腰が抜け、倒れかかる明椿林に晨羅寒が抱き留める。
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