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 霧が、海から流れ込んでいた。  砂丘に白く敷き渡り、緑の濡れる音だけが細やかに耳に触れている。虫の音はひっそりとして静かであった。  陽光はまだ、小高い砂丘の後ろに燻っている。  夜の香りが残る、朝である。  塵埃に混じって水泡が漂う。その白波のように漂う霧に包まれながら、明椿林(ミン・チンリン)は目を閉じてゆっくりと呼吸を繰り返していた。  心地よかった。  遠くから運ばれてくるさざ波の音が、身体の奥にまで染み渡るようだった。  高く巻き上がった波濤の、礫を砕く音。  ざぁ……、とさらわれていく砂の音。重なる波の音に引き込まれ、唇は自然と琴の旋律を口遊む。 「最期を、覚えていないのか?」  問いかける声は、いくばくか明るい。  ぼんやりと、夢を見るような意識の中、瞼を開けた。  風が冷たい。  夜半のうちに砂は冷まされ、その上を風が抜けていく。闇を凝らした木陰を縫って、火照った肌の上を転がった。  その風に晨羅寒(チェン・ルオハン)の髪がなびいている。櫛も使わず手ずから高く結い上げて、起き抜けの乱れ髪よりは多少ましになった。  夜を過ごして知ったことである。寝相の悪さに何度とたたき起こされた。それを思い出して、明椿林の唇は静かな笑みが浮かんでいた。  晨羅寒は視線を逸らす。 「最後に聞こえたのは、琴の音だったな」  二人がいるのは湯殿である。  古昔の面影をたたえるその場所に、儚い雲砂の光りが、パッ――と、光芒を放つような花を結んだ、サガリバナの木が根を張っている。苔に覆われた水路からは細い水が流れ込み、浅い水面に、そうした光りの欠片と思われる、淡い散り花がまよう。その花の影から、小魚が時折顔をのぞかせた。  離れては近づく姿に誘われているものだと思い、明椿林は飛沫をたてて戯れた。 「国がなくとも、生きる命はあるのだな」  いつの間にか背後にきていた晨羅寒が、同じように水面を覗き込んでいった。  飾り気のない、さっぱりとした横顔が、白い霧の中でくっきりと浮かび上がっている。  明椿林は俄に驚いた顔で胸を撫でる。  群れ連なる花枝の影で身支度を調えていると思っていた。だから急に背後にあらわれた彼に驚いた。 「――虚しいな」  驚かさないでくれと言おうとして、独り言のように呟いた彼に言葉をのみ込む。  故国が失われた虚しさ。それとも、朽ちた宮殿に、ただ魚だけが自由を得て生きているということの方か。国を追われ、息を殺して生きていかなければならない流浪の一族を思えば、込み上げてくるものがあるらしい。  魚は瓦礫の影に深く潜り込んでいき、しばらくすると泡も見えなくなった。  明椿林はいう。 「国が、命を生かすのではない。命が国を生かすのだろう。人徳の王が為政者となれば、命は自然と養われる。王はただ、その命を愛するためにいる。国は命によって栄えるのだから、命がなくては、国は興らない」 「だから、春永国は再び栄えると?」  唇を綻ばせて、明椿林は晨羅寒を見上げた。 「春永国という存在が忘れられなければ、その歴史はいずれ、人民の栄える国となる」  滅んだ国が、筆という細く頼りない武器によってどれほどの復興を遂げることが出来るのか。  明椿林は興味深くもあった。  生き抜こうとする獣や、飛鱗、人々はすべて隔てなく、等しく美しい。たとえ夢半ばで散ってしまった命であろうと、その燐火は激しく燃えさかり、火は受け継がれて行くに違いない。そう思った。  ふと、彼を仰ぎ見る。 「支度は、もういいのか?」
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