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 晨羅寒(チェン・ルオハン)明椿林(ミン・チンリン)の隣に腰をおろす。水晶を弾く濡れた足をじっと見つめて戸惑ったように指を差す。 「どうやって靴を履く? まさか、濡れたままではないだろう」  一瞬、どきりとして、はぐらかすように足を引き上げた。  そのまま履いてしまおうと思っていたところだったのだ。しかし、好ましくないとでもいうような彼の声に、余計、慌てた。 「そのうち乾く」  咄嗟に答えて逡巡し、 「裸足なら、問題ない」  足を隠しながらまごつく。  晨羅寒は目を逸らし、慌てる姿を瞼に見て笑みが堪えきれない様子だった。 「私に任せるというのであれば、そこを動かないで」  どんな妙案があるというのか。得意げな顔をする晨羅寒である。明椿林は、ほう、と息を漏らして、彼の出方をうかがった。 「どのような解決策があるのかな?」  すると、晨羅寒は悪戯な気を瞳に帯びて、明椿林の足をとらえた。立てた膝の上に恭しく載せてしまう。  焦ったのは、おそらく明椿林だけではなかった。  柔く触れる彼の手つきが、どことなく初々しさを帯びて、吸い付くような肌の肌理に首を赤くした。それが、尚更明椿林の羞恥心を掻き立てた。  晨羅寒の手を押さえ、足をおろそうと身じろぐが、彼はしっかりと捕らえて放さない。  離せ、と訴える目に気が付くと、晨羅寒は不意に笑みを浮かべ、裾を手にして、銀を扱うようにして拭っていく。 「私のために筆を扱うというのだから、例え一指を欠いたとしても、私はあなたの足を拭わなければならない」 「そんなことをする必要はない」 「私があなたにできることと言えば、これくらい。その思いを、取り上げるというのか?」  穏やかな顔に、不満そうな色が滲む。少しむくれた頬に、尖った唇。  どうなのだと、問いかける目に睨まれて、明椿林は息をつく。  断る理由はなかった。  二度と水には浸からない。  そう決意して、明椿林は背中を倒し、天井を高く見上げた。  足を拭う晨羅寒のことが、よくわからなかった。  史書を書き上げた暁には、仲間を呼び集めて首を取ってしまうつもりなのだろうか。そのために生かしているのだと、言うつもりかもしれない。  しかし、どこか嬉しそうに膝をつく彼を見れば、到底そんな風にも思われない。 「……わからない」  呟いて、息をつく。  足首に触れている手がこそばゆく、明椿林の考えは散った。  肌の中の春めいた蕾みが兆すかのような感覚だった。身体が跳ねそうになるのを堪えるほど身もだえて、明椿林は気取られないようにと唇を噛みしめた。 「何を難しく考える?」 「君のことだよ」 「私に興味があるのか? 知りたいのなら何でも聞いて。明四(ミンスー)になら答えてあげる」 「そうだな、例えば、私の前に現れた理由とか……」  少しずつ逃げようとする肘を晨羅寒は捕らえて、肩に掴まらせた。  衣越しに、分厚い筋肉の隆起が伝わる。  目を上げれば、すらりとした鼻筋と唇が、自然と息も吹きかかるほど近い。 「……それくらいで、もういい」  明椿林は声を抑えて呟く。  その顔は、木槿の花が浮かぶようで、結んだ唇は紅をさしたように赤く焦れていく。  離れようとして、ほんの一瞬、彼の首に手が触れた。  息が止まるほどの冷たい身体。しまったと、手をどける明椿林に、晨羅寒は咽を鳴らして笑う。 「恥ずかしがっているのか? 明四」  からからと笑うような小気味よい口ぶりだった。しかし、伏せた瞼には僅かな影が落ちている。  晨羅寒はことのほか感情の色がわかりやすい男だった。企てには向いていない、光風として霽月な清らかさを持っている。それが、好ましいと明椿林は思った。 「お返しをしなければならないな」  変なよけ方をして悪かったと、手を伸ばす。晨羅寒の青白い肌が、差し向けられた指先に赤く高揚し、そこにほぐれるような笑みが浮かんだ。  晨羅寒には、言葉が必要ないように思われた。向ける感情の波だけで、それが暖かければよほどよく、彼は蟠りを解く。むしろ、変に気負わせるつもりがないようにも思われる。 「お返し? なぜ……」  朝日を浴びた彼の顔があまりにも眩しくて、明椿林は思いがけず目を細めていた。 「琴の音を言い当てた」 「大したことでは」 「私のすることも、大したことではない。だが、そのお礼にと私の足を拭ったのだから、君も私のお礼を受け取るべきだろう。何がほしい」 「礼にお返しをするつもりか?」  晨羅寒は戸惑った。亡霊となった今では、どんなものを願おうと藻屑にすぎない。しかし、無碍にするのかと言ったのは、自分である。  明椿林はそれを盾にとるつもりなのだ。悟って、晨羅寒は苦く呻いた。 「……物好きな人だな」  ようやく一言零して息をつく。  あるといえば、あるのだ。  その無念のために亡霊にまでなったものと思われた。  晨羅寒は若干躊躇いつつ、明椿林を見つめた。  ほら、と促す彼の瞳に、晨羅寒は微笑を浮かべる。 「私の身体が見つかったら、どこでもいい。うめてほしい」 「なんだ、そんなことか」  器となる身体が欲しいといわれ、ついには滅んだ国の歴史を書けと頼まれれば、どんなことでも明椿林には、そんなこと、程度に思われた。  くわえてそのつもりではあったのだから、お返しにしては物足りない。明椿林はそうだな、と唇に触れる。
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