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「――行くな」
それを、晨羅寒が静かに咎めた。
大地の記憶はすべて幻。
駆けつけたところで、明椿林には何もできない。目の前で、ただあの男が殺されるのを黙ってみることしかできないのだ。
「こやつを捕らえよ! 縛りつけて暘国に送り返してやれ!」
胴間声を重く響かせる大男に、明椿林は唇を噛みしめていた。
何もできないことは分かっている。だが、それでも動かずにはいられなかった。
「おやめください! 越境が知れたら家族が殺されます!」
老人にしては歳が若く、壮年にしては老いすぎていて、つかみかかるのも恐ろしいほどの痩せこけた男の姿に、誰もが踏みとどまった。
足を捕まれている兵士だけが、柄頭で男の頭を打ち、ずだ袋を蹴飛ばすように容赦がなかった。
「捕らえよ――!」
再びの怒号に、固唾をのんでいた兵士たちが動き出す。
息を呑む明椿林がたえられず目を逸らそうとして、僅かな隙間を縫うようにして颯爽と歩み出る青年がいた。
「李西からの客人と見える」
艶やかな縁取りを施した絢爛な錦を腰に巻き、壮麗な装束の装いの若い武士。兵士らの顔色が青ざめた。
彼らが口々にその名を零すのを耳にすれば、
―央―央将軍。
そう言っているようである。
光りに包まれるような若将軍の姿に、明椿林は目が離せなかった。
央――。
と、その名が引っかかった。
「人民に非はない。あるとするのなら、獣のような、あの、県令と、熊のように強欲な、国の長だろう」
十代の、若く、溌剌とした声色だった。糸が棚引くようにまつわる煙の中に、彼の面影が垣間見えた。
闇の中に閉ざされていく李西を目にかけて、若将軍が踵を返す。
「彼に食べ物を与えよ。備蓄を回せ! 私が李西に届ける!」
央将軍の顔が見えそうだった。しかし、砂交じりの風が吹き付けて明椿林の目を塞がせた。
風に運ばれる凜々しい声が途切れ途切れに耳に触れ、過ぎていった後には荒涼とした静寂が残るだけであった。
――――――
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