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その目に、見知らぬ男の顔が飛び込んだのだ。
青白い唇と土気色の容貌。この沁みるような朝に肌着姿である。どこか現実味がなく、薄らとして違和感を覚える佇まい。
いつからそこに。どうやってここへ。
そんな言葉を巡らせながら、明椿林はもしやと青ざめる。
――いつか、夜の楽音は死人を呼び寄せると聞いたことがある。
いや、まだ酔いが醒めていないだけ。亡霊であるというのなら、互いに研磨してきた友人の亡霊を見るべきだろう明椿林。この男は顔も知らないのだから……。
と、必死に言い聞かせ、
「酔いのせいだと? まさか。ただの二日酔いだ」
弾むような愛嬌のある声色に飛び退いた。
心の内を読んだようなその声に、幻聴まで聞こえる始末とあきれかえる。
飲んだ酒が悪かったか。思い出の品だったのだが、と痛む頭が尚更かち割れるよう。
「おかしな奴だ。私の前で、百面相をしてみせるとは」
聞きたくないと頭をふりつつ、明椿林は肌に粟立つほどの恐怖が呼び起こされていた。
おずおずと後退ってしまえば、健壮な身体が地を離れ、ふわりと浮遊していることに気付いてしまう。鈍色の顔はやはり、死人としかいいようがない。
亡霊なのだと認識してしまえば、咄嗟に悲鳴を口走る。
「元済――! 腕利きの祈祷師を呼べ!」
今度は何事だと、すぐさま駆け込んでくる元済の顔は苦々しい。
取り乱した主の姿に見苦しいといわんばかりであった。
祟りにでたのだと必死に影を指さし訴える明椿林であるが、元済の目に映っているのは、転がった酒瓶の山だけである。これでは明椿林の錯乱と思われても仕方がない。
「よくもこんなに飲んだもの。」そう言いたげな顔をして、元済は酒瓶を片付けながら、まるで酔っ払いをあしらうかのように、「はい、はい」と返事を繰り返す。そして苦笑いを浮かべた後に足早に出て行ってしまった。
「甲斐性なしめ」
虚しく遠ざかっていく足音に頼みの綱を失った気持ちであった。
少ない禄ながらもよく働いてくれる使用人である。繕いだらけの綿入れに、靴はどろだらけ。釜は蜘蛛の巣が這って、口は汁を啜るばかり。どれほど貧しくなろうと、彼だけは去らなかった。
しかし、それとこれとは話が違う。主に対してつっけんどんな態度を取るとは何事か。少しは一緒に怯えてくれてもいいもの。
「いってしまったな」
亡霊は声をたてて笑った。
その、あまりにも屈託のない笑い方に、明椿林はふと目を惹かれた。
柔らかな髪を結って束ね、その冴えた容貌を見ればどこか品のある顔つきである。精悍な眼差しは暖かな色を帯びて、唇は呵々、と大きく綻んでいた。
人を祟って現れたわけでもなさそうだと、明椿林の恐怖心もいくらか失せていく。
「死者の亡霊か? なぜ私の前にでてくる」
「その音に引き寄せられた」
答える頃には亡霊の笑みも消えていた。
その音、と目が示すのは、漆塗りに繊細な青貝を施した奥深い琴である。花鳥にとざされた幽かな絵の上を、氷の結晶が渦を巻くように舞っていた。明椿林の頬を伝った涙の痕跡だった。払う亡霊の手首に、銀の輝きが彩る。
「お前の為に弾いていたわけではない……」
氷雪を掴もうとするが、亡霊の指先はまるで星を捉えるように覚束ない。白のからまる天から逃れようとするように、どこか苦しげである。明椿林は空しさを心に忍ばせた。百骸九藭と目に映るそのからだは、月の光が見せる幻のよう。日に暴かれてしまえば跡形もなく消えていく雪と同じ儚いもの。
明椿林は彼の腕に手を添えるようにして、優しく息を吹きかける。
「骨までとけて、泥のようになっている男がいたものだから、離れる機会を逃してしまったようだ」
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