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「私のせいといいたいのか?」
明椿林は不満気に呟く。
友人を失った悲しみに浸ってはいたが、亡霊相手、裾を握り、追いすがって引き止めるほど心を乱していたつもりはない。
長い指先が慰めるように、明椿林の頬を掠めた。その指先を遠ざけて、明椿林は愁いに沈む。
「一人にしてほしくないと、泣いていただろう」
しかし、揶揄うような目つきをして答えてしまった男に、明椿林は赤くなった。
「でたらめなことを」
そう、言いはする。しかし、嘘をつくなと言い捨てることはできなかった。なぜ、と、本当は尋ねてみたい。しかし素性の知れない相手である。腹を割るわけにはいかない。
明椿林は襟を正して毅然を繕う。
「私のことを、娘と勘違いした愚かな武人がいるというが、お前のことか」
「琴の音を聞けば、わかることだ。何を隠す必要がある」
後をひくような笑い方をして、彼は親しみの籠もった声でいう。
明椿林は突然、目の前に斜陽が差し込んだように思われた。
髪に絡んだ耳飾りに手を触れて、熱く解け出す金の陽液を絡めるようになぞっていく。
瞼の裏に、かつての春宵の宴が蘇った。流水の紋を弦として、抓み引いて池の水を満たし、開いた水花に伶人の誉れを賜った日のこと。上帝の恩寵を断ったのは明椿林自身である。
霞を衣に、草立つ綾を身に纏う高貴な公卿や官吏が居並んでいたというのに、弦に乗せた心を言い当てたものは、誰一人としていない。
それなのに――。
まるで、万花の影に散り落ちた紅を見いだしたとでもいうよう。その紅が、自分のことと気付いたとき、明椿林は密かに息を呑んだ。
無意識に琴から手を遠ざけて、明椿林は喜色を滲ませる。
「……心残りがあるというのなら、手伝ってやってもいい」
魂は天上に昇り、魄は地に留まるという。無念があるというのなら、彼の身体は永久に心を迷わせ続けるだろう。それでは余りに報われない。ただ、そう思っただけのこと。
「私の代わりに琴でも弾いてくれるか? 国中に響くその音色を我が物として響かせることができれば、どれほどの愁いも霽れようもの。しかし、究竟の琴の名手、明椿林。他に頼みたいことがある」
明椿林をみつめる男の目つきが途端、やわらぐ。
――頼み?
心に生ずるままに口を開こうとした。
姓名は、まだ明かしてはいなかったはず。その戸惑いのうちに、疑問は一瞬にして散ってしまう。
否然の意も示さないうちから、綴れる花の色が浮かぶほどに美しい笑みを唇に乗せ、彼は、頼みを告げた。
その少し前、邸宅の門を潜る一人の若者の姿があった。姿は菖蒲のように優雅で勇ましく、元翁の後に続いて一瓢をたずさえてやってきたのは、下級官吏の甯楕だ。
「酒は、憂いを忘れる良薬ともいいます」
太史蒲弧垂が職務を全うしたところ、あらぬ批判にあい、見せしめののちに首を刎ねられたのは記憶に新しい。その蒲弧垂というのが、排行を呼び合うほど親交を深めていた明椿林の友人である。
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