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そして現実に戻った私は、母の様子を目の端に留めながら、母の洗濯物を持って帰ろうと立ち上がる。
「じゃあね、帰るね」
そう告げても、母の視線は私に向けられる事はなく「うん……」と小さく呟いただけだった。
三月も下旬になると暖かい日も増えて、母の顔色も少し良いように見受けられる。窓から見える公園の桜も三分程度ではあるが咲きだしたようだ。円形の広場の周りだけでなく、木々の間のあちらこちらに薄桃色が浮かび上がって可愛らしく綺麗だ。そうなると平日の昼中であっても、早々にお花見に繰り出した人々の姿が、病室の窓から見て取れた。
私は母の洗濯物を詰め込んだバッグを抱えながら立ち上がる。
「じゃあ、帰るね」
そう言うと、珍しく母が私に視線を移した。
「あの薄桃色になる日が来るのも、そんなに悪くないかもしれんね」
やけにはっきりした声でそう言うものだから、私は驚いて振り返った。
「昔、月明かりの下で見た桜は、人を喰らうんじゃないかと思うほど恐ろしく美しかったんだよ」
と言う母は、ほんのり笑みを浮かべていた。
満開の桜の木の下、はらはらと舞い散る花びらの雨。やがて辺りは薄桃色で埋め尽くされる。それでもなお花びらは降り止む事はないのだ。
桜の木の下に立つ、笑顔の母を桜吹雪が隠して行く。あの薄桃色で埋めるために、母の笑顔を飲みこんで行く。
「お母さん!」
そんな、自分の声で目が覚めた。
夢を見ていた。
桜の花が咲く。
毎年、それは当たり前の事だと思っていた。
桜の花が咲く。
満開になる。
桜の花は美しい。そしてそれは多分に好ましい事なのだ。
けれど今年は、母が笑顔の内に花は散ってしまって、直ぐに葉桜になるだろう。緑が芽吹けば次の命に繋がるのだから。
再び、あの薄桃色を咲かせる季節が訪れるまでは。
――桜の木の下には……――
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