忘れ得ぬハグ

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 音楽家以外とハグすることは、確かにこれまでは無かったかもしれない。2人の賑やかな声を耳に入れながら三喜雄は考えていたが、ふと留学中の印象深い出来事が脳裏に蘇った。  三喜雄のオペラデビューは、モーツァルトの「魔笛」で、代役だった。本役が少し前から調子を崩していて、本人は出たがったのだが、演出家と指揮者が許さなかった。三喜雄が出演を言い渡されたのは、舞台の前夜だった。  三喜雄はアンダースタディとしてずっと練習につきあってはいたものの、歌はともかく、場当たりに不安を抱えたまま舞台に上がらざるを得なかった。第1幕が終わるまで手の震えが止まらなかったが、何とか最後まで歌い切り、終演後に楽屋でぐったりしていた。すると、呼び出された。  三喜雄を呼んだのは、オペラのスポンサーでもあった、ベルリンのチョコレートメーカーの専務クラスの男性だった。彼は泣きながら舞台を諦めた本役の身内でもあり、代役の冴えない日本人歌手を罵倒しにきたのだと、少なくとも三喜雄は思った。  しぶしぶ楽屋に迎え入れたその人は、想定外の行動に出た。クリーム色の薔薇の花束を、化粧を落としただけで衣装も脱いでいない三喜雄に手渡し、チャーミングなパパゲーノだったと言って、軽くハグしてくれたのだった。  彼のスーツから、薔薇ではない良い香りがふわりと漂い、背の高い彼に囲い込まれる形になった三喜雄は、彼のぬくもりにちょっとどきどきしてしまった。  今思い出しても、ハンサムな人だったと思う。緑がかった茶色の瞳をしていたが、日本人のクォーターだと後で聞いた。  その話をすると、瑠美の目が異様にきらきらと輝いた。 「そのスパダリは当て馬キャラなの? それとも塚山くんが本命の座を奪われるの?」 「……俺の本命が塚山だったことはこれまでに一切ございません」  三喜雄が平たい口調で瑠美に言うと、彼女はげらげら笑った。 「どうする塚山くん、切ないねぇ!」 「うるさい! 俺と片山で遊ぶな!」  天音が赤くなりながら瑠美に噛みつく。それを横目に、三喜雄はこっそりと、その温かな思い出を楽しんでいた。  あの人、どうしてるかな。もっと偉くなってるんだろうな。 片山三喜雄、塚山天音(『彼はオタサーの姫』) 同郷(札幌出身)・同い年の声楽家コンビ。2人とも、自覚としては異性愛者です。天音は三喜雄に対して幼馴染的執着がありますが、三喜雄は彼を、ちょっと迷惑系知人としか認識していません。腐女子ソプラノの北島瑠美も同級生で、この短編は彼らが社会人(プロの歌手)になってからの設定です。 *初出 2023.11.25 #創作BL版60分深夜の一本勝負 お題「抱擁」「ぬくもり」
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