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YOUのNAMEは
「メイソン・ブロディはいるか」
この行動に特に意味はなかった。仕事中に突然訪ねて、あの澄ました男の嫌がる顔の一つでも見てやろうと本当にそんな軽い気持ちだったのだ。
かくして現れたメイソン・ブロディは俺の"知っている"メイソン・ブロディではなかった。
「え?えー!!!イーサン・ヴォンガルド?!すっげ!本物ッ……!!こんな間近で?!!あ、すいません敬称も付けずに!俺第三部隊の、とくにヴォンガルド隊長のファンで!え?え?!というかなんで俺の名前知ってるんですか??俺なんかしたかな?そうだ、ちょっと握手してもらってもいいですか?!」
オレンジの髪にグリーンの瞳、顔にそばかすの散ったメイソン・ブロディは頬を紅潮させながら俺を見上げ瞳を輝かせる。
……こいつは一体誰だ?
「……ちょっと聞くが、この部署、若しくは文官で自分と同姓同名の人間が勤務してたりするか?」
「いやメイソン・ブロディは正しく俺一人です!あ、サインもいいですか?俺の彼女も貴方のファンで!」
「成る程成る程……。そうだ、メイソンの同僚にブルネットの短髪にシアンの瞳をした男はいるか?どこか斜に構えた偏屈そうな眼鏡の男だ」
差し出されたノートにサラサラとサインを書きながら尋ねた質問には直ぐに答えが返って来た。
「テディのことですか?……やっぱあいつ何かしたんですか?まさか騎士隊絡みだったなんて……」
「テディ?そう、テディのことだ。俺は修理伺書の内容で聞きたいことがあって来たんだがテディがどうかしたのか?彼とは最近知り合ってね、もしテディが困ってるなら力になれると思うんだが」
「いや、俺もよく知らないんですけど近々退職届を出すつってましたよ。悩みがあるのかって聞いても家庭の事情としか答えてくれなくて……ただでさえ人手不足なのにテディがいなくなったら仕事が回らないですよ」
「そうか、退職届を……。そういえばテディのフルネームは何だったか……先日聞いたのに忘れちまった。さすがに本人に尋ねるのは憚られる」
「ああ、テディー・ヒルです。そうだ、あいつが戻って来たら俺、伺書のこと伝えときますよ!」
「……テディー・ヒル、ね。ああ、それはもう大丈夫だ。テディも忙しいだろうし直接業者に連絡を取ってみよう」
◇◇◇
「テディー・ヒル。随分可愛らしい名前じゃねェか」
全身から怒りのオーラを熱らせたイーサン・ヴォンガルドが何故か己の勤務地から歩いて来るのを見て卒倒しそうになった。
しかもだ、咄嗟についたしょうもない嘘がバレる前に行方をくらませようと退職届までしたためたというのに、この様子を見るにもうとっくに俺がメイソン・ブロディではないとバレているに違いない。
さて、この状況から逆転出来る打開策があるだろうか。何も思い浮かばない。逃げても秒で捕まる、となるとここで自決か?いや、俺が死に方をためらってる間にやはり捕縛される気がする。そうしてる間にもドンドン近付いてきてるしどうすりゃいいんだよ、オイ、ちょっと、
「お前も懲りねェ奴だな」
「げ」
無駄だと知りつつ踵を返した次の瞬間、俺は無様にも地べたに転がっていた。
確かに俺は過去、人から鈍いと言われたことがあるが、流石に何もないところでいきなりすっ転ぶ程ボケてはいない。
長い脚で俺の足を払い転ばせた犯人、イーサン・ヴォンガルドはニコリともせず「テディー・ヒル、今日の仕事終わったら一杯付き合えよ」と抑揚のない声で呟いた。
誰が行くか!こんボケが!!去ね!!!
と、答えられたらどんなにいいだろうか。残念ながら俺に拒否権はない。
俺は地面に這い蹲ったまま緩慢に首を縦に振った。
そんなわけで俺は退勤と同時に強制的に王宮から程近い飲み屋に連行され、今にも人を殺しそうな凶悪面をしたイーサン・ヴォンガルドを前に酒を呷っている。
好きで飲んでるわけではない。イーサン・ヴォンガルドがどんどんグラスに酒を注ぐから仕方なく。
まあ、あまりの気まずさと息苦しい程の緊張感に耐えきれずいっそのこと酔ってしまえたら……という思惑がなかったわけでもないが。
「お前何で嘘を吐いた?」
これは尋問か?回答を間違えれば今度こそ殴り殺されるような気さえする。騒がしい店の喧騒もどこか遠く聞こえた。
「あ、あんな醜態を晒した後で名乗る勇気がなく……」
「だから同僚の名前を騙り汚名を着せ自らは行方をくらませようとしたと、」
「ぐ」
一言一句間違いのない事実だが、改めて己の重ねた罪を突き付けられ思わず唸り声が漏れた。
俺は誤魔化すように再び注がれた麦酒を一気に喉に流し込む。賺さずグラスに追加の酒を注ぐイーサン・ヴォンガルド。因みにヴォンガルドはというと、人にはしこたま酒を飲ませておきながら、自分はここに来てから舐める程度にしか酒を飲んでいない。
「ヴォンガルド隊長も飲「さっさと飲め。俺が注いだやつ。全部」
「頂きます」
イーサン・ヴォンガルドの地を這う様な低い声にビビって一気に杯を空ける。そして空になる度にまた満杯に注がれる。ずっとその繰り返しだ。
……この時間は一体何なんだ、そう酒に弱いつもりはないがアルコールで俺を潰して殺そうとしてるのか。
いや、それよりも先に、
「申し訳ないが、ちょっとトイレに」
ガチャン
「え」
気のせいだろうか。謎の金属音と共に右足が拘束された様な。
「……」
相変わらず無表情のイーサン・ヴォンガルド。
恐る恐る足下を覗き込んで驚愕に目を見開いた。信じられない事に卓の脚と俺の足首が手錠で繋がれていた。
「……ええと、これは一体」
「麦酒追加」
狼狽える俺をフルシカトしたイーサン・ヴォンガルドがまた酒を追加注文した。は?
「あの、これ、何……」
「手錠」
「か、揶揄っちょります?悪ふざけなら」
「……巫山戯てるのはお前の方だろうが。俺を馬鹿にするのも大概にしろよ」
鋭い目付きで睨め付けられてそのあまりの迫力に思わず口を噤む。こ、怖過ぎる……
しかし此方としても黙ってはいられない火急な事態が。
「…ッ、トイレに、行きたいんですが、」
浴びるように飲んだ酒のせいで膀胱が悲鳴を上げていた。恥を忍んでイーサン・ヴォンガルドに頭を下げる。が、
「そこでしろ」
吐き捨てるように返された言葉はあまりに非情なものだった。
何なんだこいつ!その上、
「ッ!?」
徐に伸ばされたイーサン・ヴォンガルドの手が俺の下腹部を撫ぜたかと思うとそのままグッと圧迫してきたのだ。
「ァ、待っ、押さな、」
グッ、グッと断続的に押さえられて嫌な汗が背を伝う。いや、嘘だろ、こいつ正気か?鬼か?悪魔か?
「ごごごごごめんなさい申し訳御座いませんでした許してください助けてお願い何でもするけん」
懇願する俺を無視して酒を呷るイーサン・ヴォンガルドの硬い腕に縋り付いて、形振り構わず頭を下げ続ける。
何と哀れな姿だろうか、誰か俺を殺してくれ。
「……何でも?」
「なんでも!!」
俺は既に半泣きだった。
みっともなくべそをかきながら憎きイーサン・ヴォンガルドの腕にしがみ付き、身体をくねらせて尿意を誤魔化す。刹那、
カシャン
安っぽい金属音と共に手錠が床に落ち、突如拘束から解放された。
俺は過去一番の瞬発力で立ち上がり、振り返りもせずトイレへと駆け出した。
「……ヤベ、勃った」
イーサン・ヴォンガルドの呟きは勿論俺の耳には届かなかった。
トイレから帰還後即安宿に連れ込まれることになるなど夢にも思わず、俺は一人トイレで束の間の安寧を噛み締めたのだった。
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