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僕の高嶺の花⑥
研究室まで天音を連れて戻ってくる。
すっかり辺りも暗くなり、誰にも会わずここまで来れたことに、宰はホッと息を吐いた。
「先生大丈夫?」
「う、ん......」
背中にる乗天音に声をかけると、苦しそうに熱い息を吐いて頷いた。置いてあるソファにそっと天音を下ろす。力が入らない様子で、天音はぐったりとソファーに体重を預けた。
「先生......」
「ん....っ......」
天音の前にしゃがみ込み、心配でそっと頬を撫でると、その刺激に反応するように天音の口から甘い声が漏れる。それにドキッとして慌てて手を引っ込めた。
「な、何か飲むもの持ってくるね......」
(くそ...あいつ‼ 先生をこんな状態にして、絶対に許さねぇ)
そう怒りが沸いてくる。だけど触れた頬が熱くて、移るように宰の指先も熱を持つ。頬を上気させて荒い息を吐き、白い肌をピンクに染めている天音の姿は、もはや目の毒以外の何物でもなかった。気持ちが煽られそうになって、宰は天音から視線を逸らすと立ち上がろうとした。
「や......」
それを天音が宰の服を掴んで止める。うるうるとした瞳で宰を見つめると、天音が首元に抱きついた。
「先生っ......‼」
「行っちゃやだ......」
驚きに声が裏返りそうになる。いやいやと頭を振ってきつく天音が抱きつく。あまりのことに真っ赤になりながらも、いつもと違う様子の天音に、宰は立ち上がろうとした動きを止めて天音の横に腰を下ろす。背中に手を回して恐る恐る抱き返すと、天音がギュッと抱きついた。
「もう会えないかと思った......」
「え...?」
宰の肩に顔を埋めて天音がしがみつく。突然の言葉に宰は面食らった。
「そんなわけ......」
「だって、昔も最後の日来てくれなくて......それからずっと会えなくなったから」
「っ......」
それは、高校の時のことを言っているのだろうか。教育実習最後の日、天音に拒絶されたと思った宰は、きっと宰の顔など見たくないと思い挨拶もせず去っていった。
あの時はそう思っていたけれど。今なら分かる、実際は宰を見て天音がどんな顔をするのか、何を言われるのか、それが怖くて逃げだしたのだ自分は。
「ごめん......」
宰はまた同じことを繰り返してしまった。
「ごめんね......」
必死でしがみつく天音に堪らなくなって宰は何度も謝った。
「もうどこにも行かない、ずっと先生の側にいる」
強くそう言って、抱きしめる手で天音の背中を撫でる。落ち着いてきたのか、宰の腕の中で天音が体の力を抜いた。
「先生、なんであいつとあんなところにいたの?」
背中を撫でながら、天音に事の経緯を問いかける。
「......あれから何度も食事に誘われて、全部断ったけど......せめて学校でお茶でもどうですかってついていったらあの場所に」
天音は宰にギュッと引っ付いた。
「渡されたお茶を飲んだら、急に体の調子が変になって......気付いたら安田教授に......」
思い出したのかフルッと体を震えさせる天音に心が痛む。こんな風に体が熱くなって反応するなんて、安田に飲まされたのはきっと媚薬の類だ。宰が間に合わなければどうなっていたか、考えるのも怖くて、天音を強く抱きしめ返した。
(俺が、側にいたら......こんな怖い思いさせなかったのに)
宰はここ一週間、天音に会いにいかなかったことを心底後悔した。
「これからはずっと側にいる。俺が先生を守る。だから、俺になんでも言って、困ったことがあったら全部相談して、俺は先生の助けになりたい」
強く想いを込めたその声に、天音はピクリと反応した。そろそろと腕の中から顔を上げて、宰をジッと見つめる。
「なんで......そんなに優しいの......」
瞳があっという間に潤んでいく。
「こんなに優しくされたら......僕...ぼくっ......勘違いしそうになる......」
目の前の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「佐々木くんみたいな素敵な人が...僕なんて相手にするわけがないのにっ」
薬のせいで気持ちが不安定なのか、天音はポロポロと泣き続ける。その瞳から次々に涙が溢れてこぼれ落ちた。零れた涙を宰から隠すように俯いて、震えながら天音はギュッと目を瞑る。
その姿を、宰は呆然と見つめていた。
自分は天音の何を見ていたのだろう。
優しく可愛らしい雰囲気の中に、いつも儚さを感じていたのは、天音自身の弱さが滲んでいたからかもしれない。思えば天音はいつも「僕なんか」「僕みたいな」と言っていた。まるで自分には価値がないと言うように。それはきっと天音の自信のなさの現れだ。
(勝手に......高嶺の花だなんて決めつけて)
高嶺の花だから手が届かない、この恋が叶わないのも当然だ。宰はそう思ってきた。周りから人気があり、みんなが綺麗だと憧れる天音は、自分には手の届かない人なのだと。そう思って。
だけどそれは、その方が楽だったからだ。そう思ったら宰の恋が叶わないのも当然だと、言い訳ができるから。
結局は自分を守るために、自分の弱さと向き合うのを避けるために、いや宰は自分の弱さにさえ気づいていなかった。
だから分からなかったのだ。天音も自分と同じ、弱い一人の人間なのだと。
「先生、好きだ」
「っ......!」
天音の体がビクンと跳ねる。天音が大きな瞳を見開いた。
「好きです」
あの時と同じ告白を宰はもう一度告げる。真剣に天音を見つめる宰に、天音の瞳からまた涙が零れ落ちた。
「うそ!」
そう言って、天音が強く宰を押し返した。
「嘘つかないで...佐々木くんが僕なんかのこと好きなわけない」
天音の顔には不安が浮かんでいた。
「また、僕のことからかってるだけでしょう......!」
あの時と同じ「からかっている」という言葉。伏せた瞳を震えさせて、信じたくてだけど信じられないという顔を天音はしていた。
(ああ......あの時先生はこんな顔をしていたのか......)
所在なさげな自信のない不安そうな表情。怖かったのは、宰自身ではなくて、宰にからかわれているのではという思いだったのだ。
体のいい断り文句だと思っていた。天音は宰の告白を冗談にしたかったのだと。
だけど今はあの時とは違う。
天音がどう思っていても、例え本当に体のいい断り文句だったとしても。
宰は決めたのだ。振り向いてくれるまで、何度でも気持ちを伝えると。
「からかってなんかな......」
「からかってる!」
そう言おうとした宰の言葉を天音が遮る。
「そうじゃないならなんであの時否定してくれなかったの? 最後の日に会いに来てくれなかったの? あの時僕がどんな気持ちで......佐々木くんのこと...諦めたか......ささきくんは全然分かってない......!」
流れる涙を拭いもせず、天音が気持ちをぶつけてくる。苦しそうな姿に胸が締め付けられた。
(俺の勇気がないせいで......こんなに先生を悲しませていたなんて)
切なくて、苦しくて、息もできない。だけど初めて本当の天音に触れられた気がして、心の奥から喜びが沸き上がるのを止められなかった。
天音が可愛くて愛しくて、宰の瞳にも涙が滲む。
「うん、俺は何も分かってない......だからこれから教えて? 先生のこともっと」
「っ!」
そっと頬に触れる。優しく撫でると天音が驚いたように顔を上げた。宰を見つめる綺麗で無垢な瞳。その瞳に吸い込まれるように、宰は天音の唇に自分の唇を重ねた。
「ふ......」
吐息を漏らし、開いた唇の間に舌を差し入れる。熱い舌を舐めて吸うと、天音の体から力が抜けていった。
初めて味わう天音の唇に、宰は夢中になって口付けた。
「ん、ぁ......」
深いキスに天音の口から甘い声が漏れた。宰は思う存分その唇を味わってから、そっとキスを解く。
「あ......」
すると名残惜しそうに天音が宰の唇を追いかける。そんな自分に気付いて天音はカァと頬を染めた。あまりに可愛らしい仕草に、宰は頬を緩めた。包む手で優しく天音の頬を撫でる。
「今も、あの時もからかってなんかない」
目の前にある、天音の大きく綺麗な瞳をジッと見つめる。
「俺は先生が好き。初めて会った時からずっと愛してる......」
「.........」
「さすがに俺がどれだけ優しいとしても、好きでもない男相手にこんなキスできないよ」
見つめ返す天音の瞳が、宰の心を覗き込むように見つめる。好きだという気持ちが嘘じゃないと証明するように、真摯な瞳で宰は頷いた。
「ほんとに?」
「ほんとに」
流れる涙を親指で拭う。
「先生大好き。あの時、一歩踏み入れる勇気がなくて、逃げてごめん。これからは目一杯先生に愛を伝えるよ。だから俺の恋人になって下さい」
「っ......!」
愛の言葉とともに優しく宰が微笑む。その告白と微笑みに、堪らずといったように天音は宰に抱きついた
「僕も好き...佐々木くんが大好き......」
肩に顔を埋めて、天音が好き好きと繰り返す。聞こえる声と、肩から声の振動が響いて、これが夢じゃないと教えてくれた。
(夢じゃないんだ......先生も俺のこと......)
想い続けた天音が今腕の中にいる。宰の腕の中で、自分を好きだと繰り返している。
「っ、」
もうこの瞬間に死んでもいい。宰はそう思った。
「せんせい......」
呼ぶ声が掠れる。胸がいっぱいで、言いたいことも伝えたいこともいっぱいあるのに何一つ言葉にならない。
「せんせ......」
呼ぶ声に天音が顔を上げる。目の前に熱に浮かされた天音の瞳がある。
「こちらこそ......佐々木くんの恋人になりたい。恋人にしてください」
その瞳に、涙を零す自分の姿が映っている。
「うん、先生......っ、せんせい......!」
堪らず天音を引き寄せて抱きしめる。瞳を覗き込み顔を近づけると、天音は答えるように目を閉じた。
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